2017年1月 3日 (火)

原川家の長槍

原川家の長槍

昨年の12月29日に、西八王子のドコモへと歩いていた。前日もドコモの店に向かって、歩いていたのです。桑志高校のバス停で、時刻表をのぞき込み歩き出して、塀のあるお宅の2階を見上げながら「立派な造りのお宅だなぁ」と想いながら歩き始めたのです。ドコモの店は、年末で混雑して1時間待ちのうえに、案内の女の子が、「老人が、あれこれ聴くので」と思ったのだろう?何処かに行ってしまった。老人は、待てないのです。帰ろうと決めて西八王子ショッピングセンターへ歩き出したのです。次の日もドコモへ行かないと用事が終わらないのです、あれこれとしてるうちにバスに乗り遅れてしまいました。ムーブで西八王子ショッピングセンターに車を停めて、歩きなが昨日見上げたお宅の前にさしかかりました。脇の門からめがねを掛けた女の方が、舗道に出ておられました。思わず「あの2階はご立派ですね」と指さしました?其処声を聴かれたのか、ご主人と想われる方が出て来られました。「中をご覧になりますか?私は、一瞬面食らいながら「宜しいのですか?」と言うと、ご主人が、「門を開けますから」と言って中に招き入れてくれました。塀に囲まれた中は、静けさで満ちていました。玄関へ打ち水がしてあり、掃除が行き届いています。「掃除が行き届いていることが、基本ですね」と私が問いかけるように言うと「中をご覧になりますか?もっと奇麗に掃除してありますよ」とまた、お返事が返って来ました。「中に回って開けますからどうぞ」暫くして、玄関の障子扉を、開けて頂きました。「宜しいのですか?行きずりの私が中に入って」何度も頭を下げながら、家の中に入らせて頂きました。下の部屋は、すべて畳のようです。左の部屋に床の間、備え付けの神棚、仏壇があります。優しさと威厳のある大きな写真が飾られていました。近衛兵となり連隊長を務められ、市議会の要職もされた功績のあるご主人のお父さんでした。「長槍は此処にあります」と教えて頂きました。ご先祖は、千人同心で甲斐の国から八王子城下へ来られた、最初の250人との事だそうです。「樫の一本造りですから、刀を跳ね返してしまいます」「長さは、どの位ですか?」「二間(五メートル半)ですね、槍は短いです」「錆びています?」後で失礼な質問だと気になったのですが、実践で使われていれば、錆が出易いと安易に思ったのです。刀と違い手入れはどの用にするのだろうかとも、思ったからです。ご主人は、「錆びていませんよ」と答えられました。紅茶を頂きながら、ドコモの予約時間が気になりました。でも、貴重な話を伺うのが最優先です。お年は84歳だそうです、「お元気とお喜びが、お顔に溢れて居られますね!」シミが一つも無いお顔で、ご主人は座っておられました。帰り際に、傷跡の遺る敷台の写真を撮らせて頂きました。「大工さんが、この傷跡は、このまま大事に残した方が佳いですね」と笑顔で言われました。何度も丁寧に頭を下げてお宅を後にしました。原川家については、新しく編纂された八王子市史の民俗編の「葬儀」に詳細が載っています。10俵2人扶持のお家だそうです。後で思出しましたが、ご主人に民俗編を見せて頂いた、その中の墓所の写真に記憶があるようなのです。今日のご縁は若しかして、あの時お墓を拝見した時の事だろうか?其れとも、千人同心の研究家で故野口正久先生のお引きなので有ろうかなぁ?ドコモの店の予約時間には、間に合いました。

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2016年11月18日 (金)

今書いている詩(1285) 「遠くまで届け」

今書いている詩(1285)「遠くまで届け」

 海の中に
 浮かぶ
 灯台よ

 心の中に
 浮かぶ
 灯台よ

 希望の
 光が届けと
 廻れ廻れ

 全ての船と
人々に
 光明と祝福を
送る

 貴方は
 見えているかな
 私が贈った
 光と愛が

 人生の旅路は
長くて険しい
でもね
諦めない
求めなさい

私はこの世の道を
照らし続けている
だって 私は
貴方の神だから

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2016年8月14日 (日)

今書いている詩(1272)「じぃ~ちゃんのホコリ(誇り)」

今書いている詩(1272)「じぃ~ちゃんのホコリ(誇り)」
                     清水太郎
 舞い揚がり
 舞い落ちる
 家がある限り
 ホコリの
 一日は終わらない
じぃ~ちゃんの
 一生が終わっても

娘と孫が
眠っている 朝に
ダスキンモップを 握った
じぃ~ちゃんは
そっと床を 撫でて回る

滑らかに滑る
床は汚れが少ない
手ごたえのある床だ
ゴシゴシと擦る

真昼間です
ホコリたちは
遊んでいる
ミンナが寝静まると
床に落ちる 寝る

30年後の或る日 ひ孫が
「パパ ひいじぃちゃんは
 どんな人」と聞く
「ひぃじちゃんは あそこにいるのかなぁ~」
パパが神棚を 見上げる
ホコリが 嬉しそうに 舞っている
張り子の犬たちが
聞いている 呟く

「キミたちの ひいじぃちゃんは
 骨壺の中にいる 魂がホコリになって
 イマ 家の中を 舞っているよ」

ホコリになった
じぃちやん
孫たちの 肺の中へ
吐き出されて 空気と同化する
意思として 漂う

セミたちの 終わらない
夏が 未だ続いてる

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2016年8月 2日 (火)

詩集『昔書いていた詩Ⅲ』

詩集『昔書いていた詩Ⅲ』
                         清水太郎

(1)予兆

キャツチボールで外れた ボールが
墓地の石塔にぶつかる
日焼けした塔婆にもあたる

ボールは 無心に飛び 打者は有心
子供たちは自転車で ウロチョロしている

キャチボールは会社の駐車場でやっているが
内墓の跡に事務所を増築し その上にトイレを造った
僕も当然使った それから会社は 不運続きで
「会社は、ピサの斜塔だ」と言いながら
投手の俺は不運を投げつける

独善と欺瞞に満ちた バッタ―の社長は
思いっきりボールを叩く
「万歳」と俺は叫んで
「明日のことなど 知るものか」と呟く

(2)勘違い

かとが ハリとパリ はかとばか
点と丸の違いで
意味が異なってしまう
出発点と終着点に
大きな違いがあるのは
僕らの人生みたいだ
だが、死という命題だけが
等しくやってくる

(3)都会

暗いレバー色の 内臓に 
潜ってゆく 地下鉄
レールの 鈍い響きに
斜めの重力が 加わると
僕の過去は 引きづられ
あの階段から 小走りに
不安が 降りてくる

ああ そうだ 時は
車体のように 区切られていないから
僕らの 休息は 死なのだ

僕の乗った地下鉄は 時刻表に載っていないから
降車して 地下街を 歩いているうちに
戦争が 始まり 終わる ブラボー 
僕は永遠に とり残されてしまう

(4)梟(saeさんに)

家のすぐ裏山で フクロウが
ホッ ホー ホロツクホ― と啼く
フクロウは誰を 待っているんだろうか
それとも 寂しいんだろうか

啼き声を 言葉に変換すると
「私は 此処にいるよ 私は 見ているよ」と言っている
 僕は呟く
「君に 癒やされているからね 又、来るんだよ 
君の止まっている枝は 僕の心の止まり木に 繋がっているからね」と
 
僕の裏山で フクロウが啼く夜は 
貴女が存在し 僕の希望が 
再び沸き上がる 夜です

(5)先祖

富山湾の うねりに 招かれて
僕は遠い故郷を 訪れる
神通川の 畔で
百年前の 僕の血族が
真言を 唱える

僕も父も 国の厄介者で
僕は国を 罵倒する側
呻き 沈み 流転の果てに
無縁墓地に 眠る
 
ああ それが僕の 運命なら
今から 逆転させる為の
時計のネジを 捲こう
そして 自分の思想と
自由を 放下する

(6)炎上

僕の家が 燃える 燃える
遠い記憶の底で
くすぶり続けていた
僕の家が 燃えるのだ

消しても 消しても 
天から ほのほ
ああ 僕の知覚の 盲点で
僕の家は 発酵し続けていたのだ

だから この現実は
僕の 夢の 中の 又 夢
そして 僕は 時の流れに
逆らい 矢を放つ

(7)別離

孫に拒絶されて 立ち眩む
老婆の 脳裏に
洪水となって 過去の
楽しい日々が カラー写真の
ネガ画像となって 映るとき
道路の中央で 若い肢体を
倒立させていた老婆は 
今 大地に横たわる

大地を打って 号泣する
孫よ 穏やかな 死に顔が
別れの発端に 過ぎないのだと語る
老婆は私の 母だが 私に子はいない
すべては 白昼夢なのだ

(8)河口(Ⅰ)

河口に吹く風よ 君の運んだ 
雨の滴の終着駅が 此処だと
防波堤を叩く 波たちが教えている

海に呑みこまれる 夜の河口を 僕は直視する 
水平線の彼方にある 記憶の都市を 探照灯が照らしてる
今の時代を漂泊する 僕の道標だ
河口の空き地に 放置された 
ナンバーのない 廃車の中に 僕はいる
かつて「祈るべき神」を持たない男だったが
三千年の眠りから 突然目覚めた
都会のミイラに似て 孤独だから
黙って夜の海に 出港してゆく

貨物船の灯りだけが 救いだ
闇に軋む 航跡が 消えぬうちに
僕の魂も 船出するだろう

(9)河口(Ⅱ)

黄昏の河口に吹く風よ  
窪地に どうと横たわる
亀甲船の眠りを 醒ましてごらん

海鳴りは河口を 呑みこんで
益々 大きくなっているから
貴女の綾とりは 宿題に

夜の海に 船出してゆく
貨物船の 燈火が
僕の視界から 消えてゆく

ああ、二十世紀の 最期の
戦の時に 都市を照らしていた
あの 探照灯の彩り

今 僕の 脳裏に 貴女の記憶が
鮮やかな 画像となって
河口に 投影される

(10)残照

明日の糧を求めて
自分を切り売りする
生活よ「さようなら」

山では時間が勝鬨をあげて
乾杯するから
麓に降りてゆく
風よ
満たされぬこの思いを
仲間にも伝えておくれ

此処では 過去も 未来も
凝縮した岩の中だから
ああ 夕陽が沈めば
もうすぐ眠りに入る

季節を飛び越えて
風よ
恋人に伝えておくれ
北の山では
静かな物語の始まり

仰ぎみれば
私の涙が雨の滴となり
峰々に降り注ぐ

山頂きでは貴女に
お似合いのドレスを
ライチョウのデザイナーが
製作中ですよ

(11)空蝉

僕は 夢見て 目覚める
夢の 復習を してみる
夢は僕に 粉ひき小屋の
主を 連想させる

祖父から 譲られた
花崗岩の 臼に
僕は 夢を 押し込む
臼の中で 粉となった
夢は 頭蓋骨の
内側を 舐めて
現実と同化する

「意職よ 蘇えれ」と呟く
水飴色の世界に
いたんだと気づく
僕がいる

(12)冬景色

木立を震わせて
風が吹き抜けるが
枝にはそよぐ一枚の葉もない

林には明るい日差しが注ぐが
木々は眠っている
目前に展開する
静かな眺め
灰色の風景よ

天上の何処かに
地上の何処かに
明るい光と水があれば
それで生き物は十分です
人間だけがモグラのような
暗い世界にいるのです

(13)けもの

あなたが 林の中で
埋もれた 柔らかい 
けものの足跡を 見つけたら
木立を縫って
ルッ ルッ と舞い落ちる
銀色の 粉雪の 季節です

その時 貴方は
新雪のラッセル中か 
休憩中かも知れませんが
それでも けもの達の 
挨拶に答えて下さい
山男ですから

(14)フエルト人の神話

真紅の夕暮れは 膨張した
丸い太陽を 浮かび上がらせる
墳丘の羨道を通り 石の割れ目から
死者は空白の 時間に蘇える

それは 精霊たちの 目覚めと
フエルト人は 考えた
災いも 悲しみも 喜びも
彼らの仕業だと
玄室に一杯の 魔よけの 印を刻んだ
大地には石の テーブルを設え
裸の女を 生け贄として供えた

紺碧の朝には 黒いカラスの
合唱で 世界が変わると 信じていた
フエルト人はそんな国に住んでいた
僕の妄想だ

(15)求道

限りなく 道を求めて
今日を旅ゆく 人よ
貴方の 喜びと悲しみの
裏では 神々の
田舎芝居の 幕が開き
出演者に許しの 機会が与えられるから
現世の僕の仕事は カーテン引き

或日の午後 男は上を向き
女は下向きに 歩くから
僕は天空に 銅貨を投げ
占ってみる
表には 真実 裏には 偽りが
貼りついでいるはずだが
僕の手から 銅貨はこぼれ
少し残っていた 
希望も すり抜ける

(16)写真

ふらあーしゅと云う
言葉の響きを 見つけたら
遠い国を 見つけたようで 悲しい

子供のころ 四月の村祭りの
舞台を飾り付けた 杉の中から
三文役者の入っている ドラム缶風呂を 覗いたり 
スクリーンの 裏側から 映画を見たり
祭りの終わった朝 お金をひろいに行ったりした

子供たちは皆 成長して
記念写真の ふらあーしゅ カターン
遠い国の ふらあーしゅ カターン

(17)ベル

背中で ベルが鳴る
蒼い 靴下を 履き
足を整えた 女がひとりいる
止まる 走る
陽を浴びている
女はいない
暗い国へ 走っていく
突然 海鳴りが聞こえる

(18)瞬き

星の尾の長く揺れて
一滴のしたたり落ちて
その瞬く星の光
しずくの一滴
天の黄道を見ないで
地上に消えた人の
涙の白く震える夜
どの村にも どの街にも ある
木々の煩雑さ
水銀灯のポールの 金属の言葉

ああ 魚のいない川の流れと
虫の鳴かない秋だ
空だけが生きているのかも知れない

(19)年輪

木は一年という区切りを知らない
ただ緩やかな光と温度の
感触の中で
秋というおぼろげな季節を知っている

光が葉を燃やし
風が葉を裏返し
烈しく葉が変貌する月
山が燃える 

おい お前はギラリとした夏を忘れたのか
今は眠っている程
柔らかな太陽 そして 光だから
田螺も 泥鰌も いない 田圃で
稲の切り口が 山を見て笑う

そんな季節 誰もが 一人だ
秋になった
星の揺れる駅で
トランペットの独奏

闇は夏の思い出を 蘇えらせ
狂気の夏であったろうかと 復唱する

俺は その時期 自分を
見失っていた気がする

(20)種子

都会の路地裏に置かれた
白いタンブラーに
貴女は向日葵の種を植えたんだね

毎日の生活に追われて
土の柔らかさも知らず
その存在も 貴女も忘れていた

私の喧藻と狂乱の時代は 今も続いているから
神の知恵の輪を解く
叡知も勇気も私は 失いかけている

ひとり 「そうだ」「違う」と呟いてばかりだ
そして 開かずの踏切を渡るときのように
立ち止まって待ち続けている

貴女には帰る場所があるのに
私の名前は神々の掲示板に
斜めに貼り付けられたままだから

私は冬眠中のカマキリの幼虫みたいに
木の枝にへばりついている

 

(21)期待の海
或日 期待しなかった
一通の手紙が 舞い込む

私は毎日 決まった時間に帰ってくる
何かを 働きかけなければ 
何も起りはしない
それは 真理だが
それでも 私は 何かを待っていた

或日 舞い込んだ 一通の手紙が
私を 遠い所へ
運んでしまいそうだ

 疑う 疑う

いまこうやって ひとり
考え込んでいるのは 俺だろうか

機械の中に混じって
忙しそうに 働いているのは 俺だろうか

抜けてしまいそうに
青い空の下に 広がっている
コンクリートの 道の上を
歩いて行くのは 俺だろうか

何時か 右手を揚げて
貴女に挨拶した そんな季節があったね
今年も俺は 右手を揚げるだろうか

鏡の中の俺は 真逆の俺だが
左手で 疎らな髭を 抜いている
俺を 俺が見ている

(22)宇宙船

私は希望を失って 大気圏を外れ
地上に落下してゆく
ビルが石柱のように立っているのが見える

私に不可思議な力が働く
枯葉より早く落ちる速度だ
ニュ―トンが林檎で
万有引力の法則を知った日のように
空はどんよりと暗く 寒い
血漿が凝縮してしまう
私は肌を摩擦する

赤い光を放って
意識が燃える
空気振動を生じる

北極点でオーロラが観測される日
私が燃えているのだ

(23)駅

山を見ている
緑の林と岩壁の輝き
俺が山の駅で
方向を失った時
少年たちがトンネルの
狭い階段の下で
唇を曲げて笑っている

「レールの傾きはどうだい」と
線路工夫が聞く
少年たちは
首を振るばかりだ

闇の中レールが
ずーと延びている

(24)実験室

俺は頭の中で
さかんに光の量子のことを
考えながら
振り子の周期率を 数える
眼の奥で
平均値が充満している

ああ 隣の机では
固有抵抗の測定と
発熱量の実験中

時々 教授のマイクが
机の上を歩く

「俺には理解できない」と
何度も呟きながら
振り子の往復を数える

俺のいない実験室は
シーンとしている

(25)朝

俺は前を向いている
後ろに朝の 香りが近い
赤土の丘 裸体の樹木
あのあたりで 夜が
まだ 浮遊しているのだろうか

鳥も啼かない 中洲にある浮島で
俺はお経を 誦えている

そうだ 何も見えないが
確かに 夜明けは 近い
闇の 連帯が終わり その中で
色の広がりが 始まっているのだ

もうすぐ 俺は捕える
地上30㎝で 光と浮遊している
朝を きっとこの手に
その時 朝は 生まれたばかりだ

(26)光

深い 一筋の 流れ
碧く 沈む 光の糸
その中で
誰も見ない 閉ざされた 
光の深層 その跳躍の 
栄光を 見る 
夜明けだ


(27)ネオン

覆われた工場群の
闇で主張する ネオンの輝き

「東京の女は 美しいかも知れないが」と
私は呟く

夜は何処で眠りに就こうか
ベンチのない公園で
八月の蠅が
アスファルトを舐めている

緑色の風を残して
夏は終わったのだ
私はかろうじて 息をしている

(28)言葉

俺が 辺り構わず
灰色の 言葉を撒き散らすのは
北の斜面で 凍結し
動かぬ 風のように
冷酷な 血液の高まりを
拒否する為だけであろうか

ああ 今日も俺は
ただ虚しくなる為に
仕事に出かけてゆく

其処では お前の言葉も
俺の言葉も 鮮明ではない

俺は自分の家に向かう
昼と夜の境界線を越える

主のいない家は 動かぬ風のように
凍えている
おお 反乱それが 俺達の合言葉

(29)泳ぐ

冬だ 燃える葉の
季節を見送り 冬だ
灰色の樹の見える
その根元に 冬だ
夏に 熱い空気の塊を
忘れた肌が 震えている

電車の踏切を越えて
アスファルトの溶けて
一直線に伸びる国道

南海の海で
パプア人のように泳いだ
海は眠っている
砂も 波も

だが おお コブシの樹の芽の
膨らむ頃 俺の胎内では
夏と冬が 山椒魚のように
両生している

(30)墜落

高圧線の下にある
団地の ブランコに
女の子が乗っている

金具の 軋みが
前後ろ 前後ろと 連続して

意識と無意識の風に
髪を靡かせている

或日 女の子が
脱皮を迎える 朝
飛行機が 落下する

それが レーダーサイト下の
団地の運命だろうか 何処かで
ピアノ線の ため息が聞こえる

金具の軋み音は途絶えた 
或時 八百屋で 胸の膨らんだた
女の子が 瓜を売っている

(31)眼

山の画家は
一日じゅう
山を見る

何枚かのスケッチが
一枚の絵になる

私は 見る 知る
凝縮された 光景を

ほんの数分間
私の 目玉が
ひっくり返る 

(32)モグラ

乾いた土の上を
モグラが走ります
息絶えて垂直に
死にます

魂だけが
風に乗って
飛んでゆきます

今度は
金色のモグラが
死にます
風の中では
土に帰れません

(33)リレー

俺は笑いの中に
住んでみたが
悲しいのだ

頭の中で
最初のリレーが動く
最期のリレーが作動する

俺はエレキになる
どうにもいやだ
おれは俺になってみる
テレビのゴースト画面に 
ニ重写しの 俺がいる

「どうにもならねえ こりやあ どうすんべえ」と
呟く


(34)掘る

山イモ掘りは
山の 急斜面の
開拓者かもしれない

垂直に掘るから
山は 秋から冬だ

穴ぼこを 明け過ぎると
其処から 地球の空気が
抜けやしないか
心配だ 

(35)雪崩

夏道の消えて
山靴の音がする稜線

青氷の斜面を
風たちと対話しながら
一緒に登ってゆく

空の蒼に
雪と氷の世界で
動かない岩棚

雪臂に亀裂が走り
烈しい雪崩が襲う

山は変貌して
私の存在は
無視される

(36)秘密

厳冬の山の尾根道には
蟻も歩かない

襟を立てて
夏も冬もない街を歩く

俺の前を
一眼レフカメラを
片手に女が歩く

バスに乗る
女が座席にいる

闇の中を
西の終点まで走る

シヤッター音に
気づいた俺は
独りの女の
秘密を見つける

(37)悲しみ

旅路で果てた
男の骨が帰ってくる

コンクリートジャングルで
生まれた子供たちは
広場で遊んでいる

空に飛び出すように
ブランコを振る

男の故郷は此処なのだが
すべてを失った男には
行き場がない
陶製の骨壷の底に
白く固まっているだけだ


(38)道

何処にでも
哀しみがあれば
石ころがあった

何処にでも
石ころがあれば
其処を
風が吹き抜けた

(39)横田基地

暗闇の中には
青色の灯火が
等間隔に並んでいる

有刺鉄線の彼方に
その国の土地でない土地がある

建物の灯りは不透明な
窓ガラスに遮られて
光の束は半減する

兵士の姿は見えないが
夜空を探照灯が照らし
滑走路を無人のバスが走る

真空地帯が広がっている

(40)因習

我々の古い時代の女には
くたびれた縄が結びついている

道を歩いても
寝ていても
結び目はほどけない

我々の古い時代の男には
鉄の鎖がついている
道を歩いても
寝ていても

外そうとした男はいない
我々の古い時代の世界には
高い壁がそびえている

道を歩いても
寝ていても
乗り越える者はいない

(41)機関車

黒の機関車のある
駅で働く 線路工夫よ
お前のその右手のツルハシには
過去を打ち壊し 
未来を掘り起こす
力と勇気がある

だから 娘達よ
彼らを恋するのに
戸惑ってはいけない

でもね 君達の街には
まだ太陽が昇らない

犬の眼は片目だし
私の肺も半分だが

君達の未来を信じているから
私は機関車を
今も磨き続ける

(42)帰り道

何処かで誰かが 
欺いているんだ
何処かで誰かが 
忘れているんだ

遠い昔に出会った
役者のように
白い粉を 顔や手に
塗るのはやめてくれ

空が暗い
薄墨のような 夜明に
家を出る 帰る

何処かで誰かが
物知り顔をしているから
家に帰る道を
忘れてしまう

(43)顔

校庭に建った杭打機が
ひどく黒く巨大に映る
朝霧の中 空に向かって
直立している

朝の薫りはビルの谷間から
駅へ続く道に溢れている

薄く霧に覆われた
樫の樹の下を
決まった時間に
同じ方向に男は歩いてゆく

これで良いとは誰も言わないが
突然 警報音が響く

杭打機がドスンドスンと吠える
机に向かっている
男の腹を揺らす

無表情に飯を喰っていたが
昼休みの終わりのベルも鳴る

夕方には朝の顔を取り戻して
帰ってゆく家がある

(44)絵

とぎれとぎれの
心の壁の中から
少しでも語りかけるような
絵を描いてください

暗い部屋の中でも
自分が映る
魔法の鏡のような絵を

でも 哀しみは夜の闇に
消えてゆきます
私の持っている絵具で描くには
単色で十分です

(45)パンが欲しい男

池があり 光が 風に踊り
枝が 風下に伸び
ススキが広がり 秋の花々が咲き
大きな山がある

裾野に こんもりと 木々が並ぶ
遠く あのあたりから
押し寄せる 空の群青
(だが私はパンが欲しい 一切れの)

原始林の中で
澱みのない 苔のあたりで
ひとりの ワルツの始まり

幾層もの 白い季節の
重なりの 恐怖と風

私の 季節は
何処に いったのか
(私は 閉ざされた 部屋にいます)


(46)予感

遠い日 何処かで見たように
最初の印象は 爽やかであった

また 或日 何処かの喫茶店で
出会った時も
ただ 笑っているだけだった
偶然の出来事のように

それが 芝居だったとは思わないが
そして 電車の中で 顔を合わせた
なんでもないように 振舞っていたが
そうではなかった 思ったとおりだ

顔を見ればそれですむ そうだろうか
そうではない 私には
それから先が 永遠に
続きそうで 困るのだ 

(47)失踪

窓のない部屋に
丸い卓袱台
その上に干からびた
割り箸と どんぶり
隅の机に
英字のノートと
インスタントラーメンの
袋が同居している

40ワットの電球に
小さな冷蔵庫が白く
浮かんでいる
中には 何もない
バターの箱のみ

壁の埃が
久しぶりに人間を見る
蒸発した主人は
私の同級生だ

何が起きて 
どうなっているのか 
わからない

月が出て
寒い夜だ

(48)煙り

その男の残したものは
一筋の ゆらゆらと登る
線香の 煙りであった
生まれたのは  細長い山間の谷
どんづまりに 朽ち果てた古城がある

因習と緑に囲まれた村の長男
父が死に 母には早くに死なれた
何度も引っ越して アメリカ人を見た

或日 気がついたら
ガスの臭いと 納豆売りの
ドヤ街に住んでいた

仕事で口に含む靴釘で 黒ずんだ歯茎
妻が死に 養子の子供にも 死なれ
後妻は 中気で 動けない
「なんとかしなくちゃなあ」が口癖

夜になると 夜盲症で
昼間はメガネの奥で 笑っていた
或時 裏山で 僕と貧しい昼飯を食べた

「今日の おかずは メザシだよ」と 大声で叫けび 
入れ忘れた箸の代わりに 小枝を使った

忘れた頃 夜中に 電報が来て
その男の残したものは
ゆらゆらと登る 線香の煙であった

男の名前は シムラ ヨシジ
もう 50年も前の 出来事

(49)潮解

20両の貨車が
白い塊を3個
積んだ
岩塩が溶ける

緑の風と
朱色の季節が
混在し
夜中に
うねうねと
栗の実が
落ちる

(50)幽霊

白い光の時代では
棺桶に
骨ばかりが
横たわる

黒い衣で
覆われた駅に
石灰虫の化石が
敷き詰められる

プラットホームに
棺桶がひとつ

私はいない
海を見に行っている

アスファルトの上で
蛇の脊髄が
ぴょんと跳ねる

朝の庭から
紫陽花が
滲みだす

娘が街を歩く
誰も見ていないのに
腰を振ってゆく

僕は 棺桶を担ぐ
中の魂が 軽い

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2016年8月 1日 (月)

詩集『昔書いていた詩Ⅱ』

詩集『昔書いていた詩Ⅱ』
                        清水太郎
   
(1)抱擁

貴方の心を弄ぶ 私は悪い女です
行きずりの 男に抱かれ
燃える炎を消しきれず
悪魔に身体を売り渡す

快楽求めて 蛾のように
ネオンの闇に紛れこみ
軽い情けに 軽い尻
嘘で飾ったドレスを纏い
手練手管の マリア様

伸びた肢体で 男を誘い
微笑みながら 男の体液 吸いつくし
カマキリみたいに 食い殺す
荒れた心に 乾いた唇開き
唄う 涙の 騙し歌
私は夜の 青緑泥

(2)朝の飛行

輝く朝に 心のアクセル 
力一杯 加速して
未知の世界に 飛び出そう
広げてみよう 心の翼 大空に
大地は緑 空は青
丸い地球を ひと回り
心の垣根を 飛び越せば
言葉は世界の 兄弟だ
手をつなぎ 記そう 心の伝言板
輪になって 心の扉 開いてみよう
心の歌を 唄ってみよう

(3)時刻表

人生の旅路で見た
複雑に編成されたダイヤ 
その片隅にある無名の駅を 
夜行列車は通過する

東雲の空に向かって驀進する
展望車の窓にかけられた 
浅黄色のカーテンが開けられると
寝台車で萎えた青春を抱きしめて
仮眠する僕らに色褪せた朝が始まる

目覚めた僕らは陽の当らない 
窓辺の座席で欠伸をする
終着駅も知らない僕らに 
車掌が時刻を告げる
「アナ―キイな夜明けだ」とつぶやいて 
僕は貴女を見る
 
貴女の言葉のツルハシで 
心に空いたその穴から
溢れた涙が雨になる 
頃は八月蝉しぐれ 

(4)ポケット

君の膨らんだ ポケットには
何が入っているんだろうね
僕のポケットは
過去の異物で 一杯だけれど
君の ポケットには
希望とかも 入っているんだろうね

 (5)バリアー

君を 愛のバリアーが
覆っているから
安心して 眠っていて 
いいのよだよ
だけどね 不安が
君の 棚の上に
乗っているから
注意した方がいいよ

(6)アンテナ

世界中を 電波がめぐり
身体中を 電波が 突き抜けているから
恋の電波は 素早く キヤッチしなさい

(7)笑顔

悲しかったら 泣いても
いいんだよ でもね
君には 笑顔が
一番 似合っているよ 

(8)季節

職業安定所の 
紹介係が
ほんの少しばかりの
自由を斡旋して
季節は過ぎゆく
回転木馬
春の雲雀に
夏のハマナス
秋の長雨
冬の雪しぐれ

(9)手紙

別れ手紙のあとがきと
空の封筒 握りしめ
窓辺の紫陽花 見つめます

涙で滲む 文字のくせ
白紙の便せんは 語ります
あの時 貴方が 眩しくて
外は六月 雨上がり

別れ手紙のあとがきは
残した未練の胸の内
急いで印す走り書き

外は六月 雨上がり
心の穴は みつからぬ
言葉の杖は もういらぬ

(10)人形

私は貴方の操り人形
言葉の綾で
あやつりの糸は切れ
唯の女になれたのに

乱れた髪に 細い指
切れた糸を絡ませて
ひとり寂しく 糸をつぐ

舞台の幕が閉まっても
慣れぬ楽屋の 片隅で
ベビードールの独り言
心の糸は紡げない

貴方の心は 糸車
カラコロ カラコロ 廻ります
埃にまみれて 操り人形
 
昔の夢を追いながら
貴方の姿を探します
煌めくライトと歓声に

答える貴方は 恋のあやつり師
もつれた糸を 解きほぐし
私の 心の糸車
カラカラカラと 廻します

(11)青春

僕くらの青春 荒削り
言葉のカンナで 削っても
心の傷が 深すぎて
時の流れの 標準器
求め独り 旅に出る

僕くらの夢も 船出して
過去と未来の 中程で
時の嵐に 巻き込まれ
折れたマストに ぶら下がる

ああ 君よ 勇気を持って
破れた帆を 揚げよ
僕は独り 海原を漂って 
見知らぬ港に 辿り着く

そこで 僕くらの青春 
総仕上げ 心の 立て板に
時の金槌 振り下ろす 

(12)異国

異教徒の住む砂漠で
風に逆らうのは 砂ばかり
風がそれを手助けする 
砂丘に気紛れな 
アラベスク模様に似た 
風紋を残して
駱駝に乗ったアラビア人の 
隊商を迎える

アラビア人と駱駝の歩み
何千年の昔から 
砂漠も人も 変わらない
風は生涯吹き続け 
アラビア人の 
旅は終わらない

砂漠で風に逆らうのは 砂ばかり
ああ 風よ 砂丘に 異教徒の
悲しみを刻み 何処まで渡りゆく
アラブの歩みは 駱駝の歩み

(13)蟻地獄

雨が降ると 子供たちは
神社の床下に 潜り込み
蟻地獄を 掘り返し
イチッ子を 捕える

だが それが ウスバカゲロウの
幼虫であるのを 知らない
時に 蟻を 突き落とし 遊ぶ

その村も 神社も
成人した子供たちには 遠くて
待ちぼうけの イチッ子には
遠い時の流れです

(14)立川

「朝鮮戦争の時は アルコール死体の腹さいて 
ええ給料の仕事があった」
基地の門前で老人が 倒れるときに呟いた

鉄条網は青錆びで 飛行機の飛ばない
滑走路には 雑草
団結小屋に出入りするのは 砂川村の
歴史を 特製の消しゴムで 消した
老人と 子供達

自分の国に 他国が有る 現実を
言葉で知っても 身体が知らない
基地が返ってくる その中にあった
悲しみと喜び 許せないのは
傍観者と 政治家
暑い夏の終わりに 村にあった 小さな戦です 

(15)投影

盆地の小都市の 入道雲の上に
登山者の目から 投影された 
ヒマラヤの峰々が 現出する

都会のキャラバンは進まない
心ばかりがヒマラヤに飛んで
彼らの地上に 聖域はない

夢の中の 日常で
彼らは遭難し SOSを発信する
或日 ネパアールの救助隊が
その信号を 偶然に傍受する

(16)器械体操

あん馬の上で 倒立していた
僕らの時代の 幽霊は
僕らの言葉を 真に受けて
冷たい心を 置き忘れ

ガラスの向こうの 真実に宙返り
ああ おまえ聞いて極楽 見て地獄
嘘を地表に敷き詰めた
都会の暮らしは 身につかぬ

砕けた情けを 石に変え
賽ノ河原に 積みあげて
ひとり故郷を 思いだす
因果の糸は 切れ切れで
今は懐かし 生き地獄

南無阿弥陀仏の お経も知らない 僕らを見つめ
こんな世界と 知らなんだ
ひとり静かに 嘆いてる

(17)石棺

闇黒の闇と歴史の時に守られて
地中の 石棺の 深い眠り
この俺と地表の土を払いのけ
重ねた石蓋 取り除き
呼び醒ますのは 誰だ

お前たちに この世の権利があるように 
疲れた身体を 横たえて
深い眠りと 安息の 日々を過ごす俺たちの
自由を 犯して 良いものか

今更 この世に 生き返り
手厚いもてなし 受けたとて
何処へ行っても 見当たらぬ
見世物小屋の 俺たちだ

裸の骨の 真実を晒されて
深い眠りは もう出来ぬ
墓をあばいたやつは 必ず共にとり殺す
安息の日々 取り戻すまでは

(18)漁火

時のうねりを知らせるように
沖合から 押し寄せる 波
ローラーで 平均的に地ならしされた
浜辺で 漁火を見つめる

男たちの 瞳に映える
非暴力の旗を 背負って
のろのろと 歩む青亀よ
だが 深海に降る
マリンスノーが積り その重みで
海底が陥没して 海鳴りが始まると
俺も海女も 汚染された
阿古屋貝を求めて 船を出す

ああ 海鳴りの 浜辺で
網を引く 老人たちの目から 
ウロコの 角膜が 剥がれ落ちる 

(19)広島

ピカドンの日
数百キロ離れたところっで
 俺は 母の 子宮の中
隣の姉と 一緒に
羊水に 浮かんでいた

だから俺は 今も被爆者ではない 
双子の兄弟 その男の 
名前「峠三吉」を知る前までは

八月の 熱い日になると
広島の 被爆者と共に
ピカドンの日を 忘れない


(20)海水浴

浜辺に タイプライターのような
足跡を残し 入墨男は波間で
情婦と楽しんでいる

危険信号のブイが 時々 波間に消えると
次に やって来るのは 好奇心と怒り
それらを運んで 波は浜辺に 辿り着く

その浜辺で 口をあけて 死んでいる
貝の記憶を 俺たちは知らないが
漁師たちは 知っているか

波は 何処からやってくるのか 誰も知らない
夜 子供たちが 花火を打ち上げる

入墨男は 情婦の 性器を 弄りながら
花火に向かって 飛び込んでくる 
夜の鴎を ピストルで 撃ち落とす
俺たちにとって 許せない 夏の始まり

(21)海水浴(Ⅱ)

ヤクザと情婦が 後背位で交合する
波間で 俺はブイにしがみつき
入墨された 極彩色の 夏に出会う

位相の波が重なり 俺を襲う
浜辺に置き忘れた 昨日までの俺を 引き算して
咽喉に侵入する 苦い海水の法印

俺の日常は 浜辺に突き立てられた
ビーチパラソルの継目に 挟まれて
日影で 使い古しの 性器を
セパレートの水着に 貼り付け
女と 転がっている

女の予備軍から 抜け出した少女が
腹の突き出た男の前で 日焼けした内股に
貼り付けた 禁欲の免罪符を いとも簡単に 剥がし 
バスケットの中に 投げ込んでゆく

男の記憶の中では まだ子供の少女が
波に向かって 砂の防波堤を 造り続ける
その足元で うつ伏せになって 死んでいる 
青貝と重なる

(22)凍る

季節風の吹き出しが 雪女郎と共にやって来て
山頂を真冬の壺に押し込め 白く凍らせる

石室でツララを飴のように しゃぶりながら
狂乱する冬の使者を やり過ごしていた 山男に出会った
 
はにかみながら 差し出す手を 握ったら
山男の喜びが 石室に拡がった

吹き込む風の音に 夜 目覚めると 山男はいない 
朦朧とする 意識の中で
出あった山男は 俺自身であったのかと 考えながら眠ってゆく 
SOSの無線を 貴女に打電しながら

(23)ロストボール

過去のプロゴルファーが殴打する ゴルフボールは
少し狭くなっているグリーンの 
白杭のオービーゾーンを飛び越え ロストする
僕も人生の藪に迷い込み
青春をロストしかけている
ところで聞くけど 君の青春はどうだい
けれどもね ロストボール探しの名人の キャデイは
そのボールを 必ず探し出すんだ

たとえそのゴルフボールが アイアンで傷ついていても
おう それなのに 今日も 都会のゴルフ場では
過去のプロゴルファーは 人生をロストしかけている

(24)求職者

人工衛星スカイラブの落下する月 
(直訳すると大空の愛が落下するとは皮肉だ)
鈍行列車を途中下車した 無職の三十男が
何度も 送り返された 偽りの履歴書を
燃やしに 街はずれの公園へゆく

木製のベンチに座った 義眼の試験官が
「どうして辞めたんだい」
「理由などない いやだから」
男は小声で呻くように答える

真実らしい嘘を 整理しながら 
(失業保険はとうに切れている)
ガタンと夕陽が傾いても 男の帰る家はない


おう 鈍行列車の時刻表を 眺める
乗り遅れの乗客が 僕だ 
(祭り囃子がピーヒョロロ)

(25)予感

ウインチで巻き上げられた偶然が
43階のビルの屋上から落下するように
死は加速されて物憂げに歩く 
地上のお前を突き刺す 
そんな 或日 夕陽が黄金に燃え
都会の裏町に隠れた 偽善者を映す

ちょと貴方 天国行きの時刻表が改正されました
お間違えのないように 人は皆、月曜日から日曜日の間に死んでいますね
金も名誉も持ち込めぬところが有るでしょうか

善と悪が判定される 特別製の天秤では 
貴方の過去は反映されないでしょう
そして、誰もがいつの日か、死の切符を無理やりに買わされて
請求書が送られてくるのです 支払う代価は命です

あの世行きの行列に並ぶ老婆に 偶然の死はない
僕にはいつごろ届くのだろう 死の案内状
その配達人は 貴方ですか
だが、僕は今、無職なのであります

初冠をつけたばかりの少年が 一眼レフカメラを構えて
澄んだ瞳の中に 死の光景を連写する 夕暮れに
胸のふくらまない売春婦が 快楽を捨て 街角に立っている
 
売春婦を買う為に稼いだ金ではない
給料袋をポケットの中で 固く握りしめ
不能になった性器を 露出させて
小走りに走りさる お前を罵って
売春婦も 少年も 夕陽と共に
奈落の底に落ちてゆく
待ち構える 死の先触れのように

(26)必然性

真夜中に 突然にジョキングを始めると言って
駆け出した男に 仕上げたばかりの
入れ歯を磨きながら 老人の歯科技工士が聞く
「どうして走るのか 老いれば枯れる身体なのに」
戸惑いながら男は答える
「ならば どうして1年は365日で、大安の次に仏滅が来るのか」

老人は立っている 男は走っている
ランニングシューズの底に 少しばかりの自由を 安堵して
地球の上に立っているのではなく 逆さまにぶら下がっているのだと
 
夜の公園の森を 傾斜して飛ぶ 蝙蝠のように 呟きながら
男の工具箱には大工の 差し金がない 
唯、時代を暗示する 大型のレンチが 口をあけている

男の野球帽は八角のボルトで止められ
呪術師の 言葉に 傷ついて
夜の闇に向かって 駆け出す
妻の待つ 眠りの上へ 一直線に

(27)貨車

連結器の外れてしまった貨車が 
逆方向に走り出すと
僕は過去の象徴であった 
反戦と書かれてたファイルを取り出す
僕らに関わりのない今の繁栄が許せないのだ

だから、僕らの胸の画架にある キャンバスは真っ白で
使われない絵具や筆が 足元に転がっている

遠い時代に浮世絵で踏み絵され 言葉を発するよりも 
先にお前を 殺してしまったから

僕が不自由なのは オモチャの手錠を 
心に懸けて生きているせいだ
連結器から外れた貨車が 
破滅の終着駅に向かって 
徐々にスピードを揚げ 突進してゆく 

(28)夢

眠りの中で 釈迦のポーズをして
呪術師の言葉に 聞き込む男は 目覚めて
両手に呪文の入ったバケツをぶらさげ
廊下に立たされた 小学生に変身する

その中身を自分の墓石に 注ぎ込みながら
しだいに成長する 蛾の幼虫のように 脱皮してゆく

男には学校も 教師も 友人も いらないが
愛がほしいという 贅沢な欲望がある

呪術師の呪文を解き 男が必要とされる日が来るまで
自分の愁訴を示す 額のシワを 手鏡に写す
そんな男を見て
呪術師は 今日も笑っている
 
(29)革命家の嘆き

何にもすることがないから
玩具屋に行き プラモデルの
ピストルを買いに行こう

そして、ケチな殺し屋にも
別れの挨拶をして
自分は団地の 水洗便所で 
核戦争のボタンを 押すんだと
呟いて レバーを 横に倒す

昼間は、10年前まで革命家だったので
頭のハゲが 日本のCIAに 見つからないように 
ゴルフ帽をかぶって 外出する

夜は、団地の仲間から マージャンの誘いの 電話を待つ
頭の中で古びた思想が 居眠りしている

(30)喪失

何処で失くしてしまったのか 
何処で忘れてしまったのか
僕らが育ったあの頃

何処に行っても
貧しさが 充填されたガスボンベのように
周りに転がっていた
希望は新品の鉛筆を 削るように
少しずつ 短くなったが まだ残っていた

今の、貧しさは 時々通る
チンドン屋のような 見世物だ
(共産主議は色あせたピエロ)
経済大国日本のプチブルジョアの僕らは
英雄気取りの肥満児だ 本当は 
心の貧しさを どうすることも出来ない
 
(31)宇宙の誕生

数え切れなく遠い 或日
宇宙の果てで 風見鶏のように
定まらない方角に 向かって
超エネルギーが放射された
(これをビッグバンと云うらしい)

それが、我々の誕生と時の始まり
次第に膨張する 宇宙の中で
放たれた矢のように 時は
一方通行で 過去を置いてきた

だから、僕らは 現実を食べて生きている
時間は膨張する宇宙と同じ速度で走り
僕らは其上にいる 止まっているように
思っているだけだ 自己中心的になる

そして、時を刻む暦を作り 辛うじて
安心した 征服者のつもりだ
僕も 時も 光速で走っている 
世界は ノンストレスだろうか

(32)八月の或日

街の零細業者の手で 
納品された金属バットで 
殴打されたソフトボールが 
アインシュタインの
相対性理論の壁を越えて 
少年のグローブに捕えられる

少年は一舜たじろぐが 
次々とボールは殴打される
双曲線を描いて飛んだ距離だけ 
希望を失うが 少年は確実に捕えてゆく
 
少年にある可能性とは何だろう
僕の汗と少年の汗は 同質だと気がつく
 
八月の或日僕の頭の中で機械油のする 
計算機が組み立てられる

少年はゼンマイ仕掛けの 
腕時計をはめて
アインシュタインの 
ソフトボール大会へ出かけてゆく 

(33)白壁

修復すべき壁に囲まれて
男は戸惑っている
幾年月の星霜に晒されて
壁が朽ちている

男の手に新しい土壁
だが白壁は男の修復を拒んでいる

自信がない男の横を
九月の風が土埃を揚げる
壁を宥める
歴史に綴られた過去が
ずーと伸びる

(34)公園

飛行機が
頭上を飛んだ
娘がそれを見て
跳ねる
公園から捕り取りの
「どのこをとろうか」と
子供たちの声が聞こえる
神のいない
午後の娘の子守唄

(35)サーカスの思い出

子供の頃の いつまでも始まらない
天幕で覆われた サーカス小屋の上に 
三月の雲と朝の訪れ

学校の片隅のローラーで 圧殺されていた
僕の幻想よ 目覚めろ

対岸に接続する橋を 
ノロノロと自転車をこぐ
不自由な少年が僕で 
河原の浅瀬に片足で立つ
白鷺が貴女 (彼岸三月 墓場の亡者は 浮かばれぬ)

白鷺が飛び立つと
少年の僕に多感な朝の クラクション
ブレーキ音が 遠のいて
犬も啼かない真夜中 
頭上を 謎の飛行物体が 犯す時刻には
僕も 橋も 狂っている

(36)夏の夕暮れ

熱気を十分に吸い込んで
膨らんだアスファルトの表面が 腐食し始めた 
羊肉のように 徐々に弛緩してゆく
 
両足を投げ出すような格好で 歩いている男の
長身で猫背の 後ろ姿を 水銀灯が写しだす
暗く沈みがちな男の眼に 水銀灯が ボーと映る

「不条理な夏だ」と呟きながら
重たそうに歩く 男が僕だ

(37)誕生日には

焼夷弾の落下音と 高射砲の  
咆哮が 羊水の中で
姉と相関した日々を捨て
仮死状態で 誕生した僕に
潜在意識が 羊水に溶け込んでいる電解液だと
三十四歳の誕生日の 真夜中に気づかせる

そして、僕は卓上の便箋に 少し短い直線を引く
その、両端が 未来と過去で 僕はその線上にいる 
だが僕は まだ生きていることを証明する
公理を見つけることができない 

(38)櫂

後悔ばかりの舟を漕ぐ 僕も貴女も
未来を 限定されるから
老人が 羨ましい

僕が死ぬと 別の時代に 
輪廻するだろう
それが、遠い時代なら 
僕は 幸福でいられるが 
記憶喪失は その代償

僕の現世は 生活ごっこだったから
僕の乗った舟の舵は どの方向に
切られたか物知り顔の 老人も知らない

だから 明日 僕は文房具屋にいって
幾度でも 消せる 
消しゴムを 買いに行くんだ

(39)カメラマン

僕の目は カメラの眼
ファインダーの中から
貴女を 視姦する

僕の 網膜に映った
貴女の 横顔が
どの子よりも 美しいので
僕の シヤッターは
瞬時に 押される

今 僕は 印画紙に
貴女を 定着させている
浮き上がった 貴女を
讃える 言葉の 比喩を 僕は知らない
或日 僕の アルバムで
褐色に変質した 貴女を見ました

(40)衝動

黄金の光を放ち
落下する 夕陽を
捕まえようと
道路に飛び出し
子供は 死んだ

運転手は 僕
同じ夕陽を見ていた
誰に罪が有ると言うのか

子供は 未来を失い 
僕は 自由を失う
裁判官にも わかるまい

(41)天日和

僕は 心の部屋に 鍵かけて
又 独り 旅に出る
それが僕の 宿命だから
(鎌倉時代の 末期の 儀海と云う名の 旅の修行僧)

胸の疼きは 部屋の軋みか
摺りへつた スニーカーと
ジーンズ姿で 行けば
いつの日にか 海辺の街角で
少しだけ 希望が残った
傷心の貴女と 出会うだろう

そして 貴女の心の 扉を叩く
涙が 微笑みに 変わる時
振り向かないで 僕は行くんだ

(42)肋間神経痛

会社に出かける時刻になると
俺の左胸が痛む
取締役が外れて
唯の営業課長だ 
給料も安くなっちまった
それで 経営者と社員の サンドイッチだ

ワンマン経営者の口癖は
「好況よ 今日は 不況よ さようなら」
だから 鼻血も出ない

倒産前の噂が忙しそうに 
業界中を駆け巡って 
社長の妻は 夜逃げする

逃げたくても 出来ない俺
いつそ 倒産してしまえば楽なのに
何処からか 金を工面して来る
社長の凄腕 倒れるのは 裏の墓石ばかり

「在庫は少なく 売上あげろ」が口癖
どんぶり勘定 金数え 二重帳簿
棚卸の日に会社を 社員が口で棚卸して

俺は 今日も又 会社に出かける時刻になると
左胸が痛む

(43)嘆き

ああ 都会の
石塀に 囲まれた
狭隘な 墓地に
埋葬された 僕は
コンクリートの 石室で
時の流れに晒される
大地に 還元されることもなく
溜まり水に 浸かりながら
骨壷の中で 仮眠せねばならぬのか

だから 僕の慟哭は
怨念となり 幾重にも重複し
僕の執念だけが 抜け出し
都会に黒雨を 降らすだろう

そして 僕は 現世に
黄泉がえり 輪廻する

僕の 抜け殻は いつまでも 残る
都会の 黒雨も 永遠に 降り続く
だから 僕を癒やす 呪文はいらない
貴女の 温もりが ほしい

(44)海のオイルフェンス

西暦二千年の夕陽が 沈む日に
恐怖は 憎悪に替る
地上に降り立ち
囲まれた 核基地の
黄色いボタンを 僕は押す
 
ああ その時がきっとくる
そして 僕は 投獄される 
静かな海は 巨大なスクラップ 工場へと繋がる
汚染された カモメが
遅れた八月の夏に 乱舞するだろう

僕の罪科は 誰よりも重く 加速される
僕も 貴女も 滅ぶ日を 迎える

(45)昇給通知

ああ 僕の苦悩は
何処まで 果てしないのか
見上げれば 星が見えるはずなのに
薄汚れた 都会の 片隅で
鉛の分銅を 首からぶら下げた
ピエロの仕草で 僕は歩く

片足を失った犬が 空き地で
吠え続ける 夜に
田舎で忘れられた 映画の
サイレントシーンが始まる

ドーム型の体育館で 
老人が 腕立て伏せを 繰り返す
僕も昔の 流行り歌を 口ずさむ

団地の床下で 糠味噌が
腐っているのに 地球は廻っているから
僕の苦悩も 細い針金の上で
ジャイロ駒となって 廻っているに違いない
僕は昨日 一枚の
昇給通知を 貰いました

(46)埋葬

子供のまんま  
死んだ
姉みたいに 
貴女の 手で僕を
蒼茫の 大地に 
遺棄して 下さい

(47)窓

開いている 窓の向こうにも
闇が続いている
僕らの 宴会は
華やかに 進んでいるが
僕は 目をつぶって 酒を流し込む

ひとりひとりの 飢えと渇きが 麻痺するまで 
昨日までの 僕が今までの僕で 
明日の僕が 解らなく迄 飲むんだ

宴会場を 片づける女が
窓を閉める頃に
僕らは人生の 曲がり角で
彷徨っている

(48)「さようなら」

幸福の留め金を 貴女の 
しなやかな左手で 外された僕は
貴女の姿が 闇に紛れてしまうまで
引き絞った 弓のように
息を殺している

僕に訪れた 幸せが
貴女の不幸と 入れ替わって
僕の「さようなら」は
闇に 吸い込まれてしまう

(49)魚の日

僕は子供の頃に 釣った魚の 夢を見るんだ
投げ込まれた 井戸の底で 
魚が黒く育ち 水位が揚がると 
グルグル泳いでいたっけ

僕らが使かっていた井戸は 大家のもので
家は親父が建てた 掘立小屋だ
もちろん土地は 神主のもの

或日 高速道路建設が 舞い込み
僕らは 故郷を離れたが そうでもなかったら
鋳掛屋に見放された 鍋だ

都会の 団地の 箱の中に住む
僕は 魚も井戸も忘れて
空中に浮かんでいる

今 僕の 口に懸っている
釣針が 僕の夢を 萎ませる

(50)月夜峯

丘陵の上に 女子大の校舎が建ち
昔の砦跡はないが 春のパステル画の
ナラとクヌギの 林が残った

絵にしたいのだが 今の僕は
血ぬられた 画布を左手に持っている
醜悪な所に 咲く花が
美しいように 丘陵は
腐食土の 盛り上がり

今日も 体育の授業に 汗を流す
女学生が月経を 校庭に灌ぐのを
片隅のテニスコートで カルコートを播く
気のいい用務員は 眩しそうに見ている
(僕の知り合いだ)

秋になると 運動会がある
女学生は 林の中に潜んでいる男に 
恥垢を なめさせるから
生まれる赤子は 僕と同じ道を辿る

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2016年7月31日 (日)

詩集『昔書いていた詩Ⅰ』

詩集『昔書いていた詩Ⅰ』
                       清水太郎

(1)面接者

天井の蛍光灯は片眼 
瞬きしている
部屋には50サイクルの送風機 
壁際のスイッチ 
沈黙を続ける

このビニールのテーブルかけの
蛇の目模様は記憶にあります
遠い昔石ころのように投擲された 
時のボール その落下点で
繰り返し行われた葬式の予行練習 
その棺を包んでいたカバーと同じ色と輝き

窓にはブラインド 真夏の光を遮っている
面接官は誰も同じことを聞き 
面接者はしくじらぬように答える
ああ こんな答えで 子供たちの未来は  
横断歩道で立ち止ってしまうのか
ランドセルの中で本たちは 蝕まれてはいないか

突然の警笛に阻まれて  
あらぬ方向に発射された弾丸は
どこに行った

そうだろう 大人たちの気紛れな 
配線図の間違いから
子供たちの未来は 
ランドセルの中で踊っている

川・石・土手・家・電線・電車・松・丘
そこは徐行 そこは停止線 そこは終着駅

 *稲城の黒沢通信機に面接にいった。
不採用であった時の出来事、かなり 昔

(2) 的

春が洋弓の弦を離れる矢のように
やって来ても 
私は独り佇んでいる
 
未来行きの無人駅の改札口に 
そっと切符を出す 
しまった私は行き先を間違えたかと
考えてみるが遅い

空気の抜けたバレーボールが
ゆっくりと転がるそして 
貴女はいつも二人連だけど 
私は独り

夢の中でもう独りの私が目覚める
無人の電車に乗っている私と 
空想のレールの上の貴女

電車の窓から高速道路を 
囚人護送車に乗せられて 
老人がゆく

私は目覚めるまで 
何度も寝返りを打つ
気がつくと 
戸口まで冬が来ている

(3)大地
 
道を歩いていると 
大地の硬さが28cmの足全体に伝わる

駅の改札口に杏子色の制服の
女学生が立ち止まっている

薄い財布の中身は拾円銅貨で 
発車のベルと一緒に僕の一日が始まる

いつもの駅で会いたい女に出会う
通勤電車は満員で 
僕の体はマイナスイオンを帯びてしまう

駅前の大時計が時を刻みバスが来る
電話ボックスの中で 
何度もお辞儀をしていた男が喚きだす

今日も自分を変えられない僕は 
蜘蛛の糸にかかった虫よりも不自由だ

そしてぼんやりしていてバス停を乗り過ごす
誰よりも過去と未来の 
鬼ごっこに熱中していたから

(4)夏の終わり

山の主の出かけてしまった月
葉っぱの中をうろついていた夏が
ナナカマドの茂みに 
もう一つの季節の足跡を見つける

丸く擦れて 重なって寝ている
石ころの道を
夏中 光の 孫たちは 
飛び跳ねていた

熊笹をかき分けて
男が沈んでいった道を 
幾日も歩いた
振り返ればもう 山は真赤だ
 
(5)避難小屋

夕暮れ時に男が 
アコウディオンのような 
風の吹く稜線を歩く

真新しい登山靴を蹴り出す
男の背中で 夕陽が沈み
這い松の稜線から 
思い出の谷間に
記憶がゆっくりと落下する

山肌が赤銅色に染まると
男は 見る 立ち止まる

夜が男の頭上に投網のような 
闇を投げかける

星は天空で 垂直に瞬く
ツンドラ地帯のような 
夜明けと目覚め

空は半透明の
プラスチックの 
板となって広がる
その隙間から 
雪が落ちてくる

山頂の避難小屋から 
山靴が遠ざかる
棚には空き瓶
稜線を降ってゆく足音
風だけが窓を 
揺らしている

(6)眠り
 
麓の林は 雪も溶けて
笹の葉を 覗かせている
小川のせせらぎが 暖かい
春が こんなにも 
近づいているのに
凍った白い 稜線で
吠え続ける冬を 
僕は見ました

(7)起床

夢の中で飛び跳ねる僕
朝起きるとただの人
学校には中退が有るけど
人生にはそれがない

全て欲望を失うと
卵ガラのような
壊れた日々の始まり

(8)疾走

鋼の筋肉を身に纏った若者よ
素晴らしき時代を生きているか

オートバイを自在に駆使して
大地を疾走しているか

お前のギアにはバックがあるか
お前たちのハンドルには過去があるか

だが お前たちは知らなくてはいけない
時は過ぎ未来が
確実に摩耗するのだと

だから今 お前たちのアクセルを力一杯
ふかしておくがいい
お前たちは私の こころのライダー

(9)訪問者

唐松林の その奥で
四人の男は 乳色の霧を 
コーヒーに注ぎ込み
チンリン チンリン 鈴付けて
山行く娘を待っている

鳥も啼かない 北の尾根
風は三月 舞いながら
見知らぬ歌を唄います

沢沿いの タラの芽は少し膨らんで 
黙ってそれを聞いてます

娘の姿は見えませぬ
男の姿も見えませぬ

風は三月舞いながら
見知らぬ歌を唄います

(10)検札者

不眠症の都会の地中を 
鋼鉄の電車が走り続けます

座席の女は 身動きもせず
犯されたセックスを 開いています

白黒の切符には 日付がないから
女は眠りたくても 眠れない

眠りたくても 眠れない女と
止まりたくても 止まれない電車

『哲学者の考えにはついて行けないわ』と
独白して女は窓から 
身を乗り出して妊娠する

検札者も 車内も 
女の目からみれば
のっぺらぼうだ

(11)流刑者

夕陽が没する 
原野の流刑地で 
老人は目覚める

天空から一本の縄が 
スルスルと降りてくる
老人はよじ登る 
なんとかこの境遇を 
脱出しなければなりませぬ

真昼には地上を 
金色の一角獣が疾走し 
黄金の糞をするから
朝日は老人にとって憎悪そのもの

縄は一舜にして切断される
老人の落下する速さを計算する 
科学者の瞳は輝いている

あれから何年経たであろうかと 
流刑地の老人は呟いた
涙などもう 乾き過ぎて出ない

(12)線路工夫
 
新品のレールは錆びている
ここと ここと ここを とりかえろ
はい いやそうですね
ここと ここと ここを とりかえます

古いレールは光っている
ここと ここと ここを とりかえろ
はい いやそうですね
ここと ここと ここを とりかえます

君は寝ている 枕木かね
はいそうです す・す・す
するとあのツルハシを 
振り上げているのは工夫かね 
はいそうです す・す・す


(13) 尾瀬にて

モミの森を抜けたら
ドロドロの道が 
一層深くなったら
そこから苔の群生がつづき
辿り着いたら そこに峠がある

湿原の向こうには 
貴婦人の白樺と至仏山
山小屋につづく 
板の道の両側に 
水芭蕉とヒツジ草
尾瀬では神のささやきが聞こえます

(14)子守唄

乳母車が坂道を 
独りで 走り出すと
夜がやってきます

ガラギリ ガラギリ ギッシギシ
車輪の軋みが遠くに響いても
やっぱり夜は静かですね

夜に引かれて乳母車
子守の姉は何処に行った
向こうの街角で立ち話

ガラギリ ガラギリ ギッシギシ
子守唄は届かない
あっ止めて下さい 乳母車
ガラギリ ガラギリ ギッシギシ

(15) 記憶

蛙が泣く 
白樺に囲まれた窪地に
動かぬ池がある

赤腹のイモリが
池の底で反転する
池の沈黙は続く

日焼け顔の山男が
笑いながら降りてくる
『蛙が 鳴いていますね』
女が聞く男が答える

イモリは池の底にいる
遠くを見ている
曲がった空と
蛙がピョンと跳ねる

遠い昔 青空にのけ反るような木々の間から 
アルミナを塗した
銀紛の雲を見た

その時 落下したのは
私の記憶であったかもしれない

(16) 非現実

ほんとうに登りたい階段があるなら 
死刑囚にとつて 
十四段目はあの世です

塩化ビニール製のボタンのひと押し
執行人についていえば 
私でなければ貴女です

地震探知機の設計図は 
古ナマズの腹の中に
月に人が立っていたとしても 
神話の書き換えは私がやります

銅線をハンダづけするように 
簡単にやられたら困るので
その前に貴女のことが是非知りたい

 (17)漂流者

山頂に赤い手袋を落とし
その頂を通過した私の記憶

風化した花崗岩の 
白砂を踏みながら
男がやってくる
 
その左手に赤い手袋
切断された記憶は 
銅板に刻印されもの
岩場からスルスルと 
下降する男とザイル

時が過ぎ私のザイルも 
切れました

(18)雨

夢想者の 眠りに 長雨
骨なしの 雨傘

不眠患者の 夜明けに
黒鳥の 羽ばたき

規格外れの 男には 手錠
ああ 今日もまた 
終わりのない 戦が始まる

 (19) 空想

或日 街から スズメが いなくなる
或日 森から セミが いなくなる
或日 娘が 女に なる
或日 それはジャングルで
銀の フライパンを叩く
ロビンソンクルーソーに 出あう日

  (20)空虚

フィルム会社の煙突は 
九月の風に揺られてる

年老いたボイラーマンが窯口に
夏の廃棄物を投げ込む

空に拡がる白煙の中を 
クジャクが飛ぶ

街角を曲がった屑拾いが 
今 秋に気づいた

(21)早朝

カラビナに繋がっていた秋が 
岩場のハーケンと共に抜ける
 
切れなかった ロープ
街にクライマーが帰る

季節風の吹き出しは
夜空の星の瞬きと共に
雪を運んでくる

その下で道票は 眠っている
雪庇の張り出しが止まる朝
風が静かに逆転する

無人小屋に火が灯る
麓で誰かが 
おおあくびをする

春が来たんだ
物置の山靴は 
まだ眠っている

(22)神無月

山の主のいない月
稜線で帰り道を 
探している男が
北の岩棚で登って来た 
男と出会う

男は交代を告げ 
鍵を腰から抜いて
登ってゆく

ナナカマドの実は 
まだ青いが
イワヒバリの 
飛び跳ねている
南の尾根道で 
石ころは一日中 
蹲って寝ている

熊笹をかき分けて 
男は足早に
麓に降りてゆく

(23)黄昏
    
夕暮れに男は 
オオカミのような
風の叫びを 
山頂で聞いた

男の背中で 
夕陽が裂け
こころの稜線から 
記憶の谷間へ
スローモ―ション画像のように 
落下する

赤銅色の岩肌と 
茜に染まった天空に
星が瞬く
 
セレモニーの終幕に 
男が闇夜に
自分を放り投げる

無人小屋にクラシックの 
交響曲の響き
ローソクが深呼吸するほどの 
静寂 

(24)単独行

凍った道をあるいている
風が岩笛を吹く 
星は真上にいる

北の岩棚で 
月が宴を見ていた
山男が去ってしまえば
冬の道はひとりだ
 
凍りついた風がその上を 
岩笛を吹きながら 
通り過ぎるだけだ

(25)山の向こう

あのあたりに
山があれば
季節は独り
廻る風車

池と林があります
原始の生殖は 
岩苔の群れに
潜んでいる

そして 今は白い季節
閉ざされた 
都会にいるのは
私なのです

(26)訪問者

透明な秋の 
ブナ林の鳥の
鳴き声の鋭さ

岩肌にシワを刻む 
光のナイフが 
谷間の訪問者を
突き刺す

夜は尾根を 
降りてくる
訪問者の燃やす炎は 
煙となり闇の中に
吸収される

落ち葉は風に舞ってゆく
暗闇の中に訪問者の顔が
炎に歪んだ 

(27)乾燥

カルロスの歌声
軽い車輪の響き

新鮮な朝の誕生
セルビア人は 
オアシスの森を
駆け抜ける

弟のパウロは 
まだ寝ている
駱駝も寝ている

(28)交通戦争

 朝
路上に横たわる
一匹の犬
路上に投げ出された
一枚の雑巾

 夕
路上に塵
一匹の犬が
今日 消滅した

(29)成長

子供が女になる日
男は父親になる
子供が男になる日
女は母親になる

女になった娘には
赤い月を
男になった息子には
白い宇宙を
オウ そのどちらをとっても
因果で結ばれぬものはない

(30)序曲

真昼の工事者よ 地表に
アスファルトの膏薬を塗れ
偽りの体制を
引っ剥がせ
 
思えば
故郷の村祭りの 独白
萎縮した男根を肴に 乾杯
女を食らい 曲がった小指

気がつけば 雨
乗りそこねた男の
足先の 固く冷えた 地表
よろめいて吐いて 闇

無限でなくて 有限な明日
もう一人の俺を
売りに出そうか

(31)鉈

4人の僧侶が鐘を突く
籠堂の反対派
鐘と祈りで殺さねば
明日から食べてはいけませぬ
 
廃人だから胸の膨らまぬ あの娘
読経の前にぶち殺し
黒い性器を鍋に 投げ込むか

庫裡で朝から味噌を捏ねる
小僧は独り夢の中
燃えてるカマドも夢の中

(32)睡眠中毒

眠り続ける男には
掲揚塔に引き揚げられる
朝がない
軒に吊るされる現実もない
 
眠り続ける 男の顔には
興奮した片腕の左官が
自分の眠りを 
一所懸命に  
塗り重ねてゆく
 
それでも眠り続ける男には
針の先程の自由も許されない
 
或日 道端で眠り続ける
男を見ました 

(33)切断

建具屋のオジサンが線引きし
不要な角材をジョーンと切断した

右指をパチンと鳴らす
弾けて飛んだ
僕の嘆きが 君に聞こえるか

今 あの街角を 
ユイ―ンと曲がっていくのが
僕の過去と未来だ
 
そして 現実だけが取り残された時
君は黙って立っていたね

 建具屋のオヤジの
足元で大鋸屑だけが
散らばっていた 
あの日の出来事

(34)癌の男

六人部屋の男は個室に移された
個室の男は処置室に移された
それが三日前のことだったが
正面の看護婦詰所から
弾んだゴムマリみたいな声が
聞こえていた
でも 苦痛の海の中を遊泳する
男の耳には届かない

目がひっくり返り 
喉がカラコロと鳴ると
彼女たちはやってきて 
男を蘇生させる 
それが先ほどのことだった
白衣を翻して 
足早に帰ってゆく
「危ないわよ あの人」と囁く
昨日食べた夕飯の話を附け加える

霊安室にはエレベーターで 直通
男の勤勉さに比べたら 
残された財産は餘にも少なくて
免罪符も買えない 
エレベーターの中で上下している
男の黙示録は何処にある

サイパンで玉砕した生き残り 
三年後にジャングルから逃げ帰ると 
葬式が済んでいた

帝国海軍陸戦隊の一員 勲章はない
ニコヨンから 板橋区公園課飼育係
民生アパートに住み 妻との二人暮らし
病気が治ったらもう一度 
サイパンに行きたいねと言っていた男
 
その名はシミズシゲキチ 
もう過ぎた昔の話です

(35)余り受けない詩

嗚呼 それなのに
どうして 別れなければいけないのかしら
男と女 君はそう言って 去って行きました
霧に舗道が 濡れて光る 夜だった
嗚呼 思い出すね こんなに 霧の降る夜
銀のヒールを 両手に持って 
独りで歩いていた君を
水銀灯が見つめてた
嗚呼 あれからどうして
こうなったのか 君にも僕にも わからない
月日は流れて 僕は哀しい ピエロマン

 
(36)余り受けない詩Ⅱ

両国橋の アーク灯
文明開化の その中で
青い眼をした 異国の人に
泣いて抱かれて 羅沙綿お雪

両国橋の アーク灯
道行く人に 語ります
十で売られて 十五で知って 
二十で死ぬときや 羅沙綿お雪

両国橋の アーク灯
今は寂しく 消えてます
とかく女の 浮名には
今も悲しい 事ばかり

(37)夢の国(余り受けない詩Ⅲ)

夜の 静寂(しじま)の アーチを抜けて
夢の国に行きましょうか
所詮 儚い 貴方と私
短い命の 迷い鳥

ネオンサインの光に 溺れ
捨てた情けも 二度三度
貴方の声を 背中で聞くの
幸せ薄い 迷い鳥

酔って疲れて ドレスを脱いで
抱かれて 寝るのも 慣れました
渇いた心に 咲く花に
すがって生きる 迷い鳥

(38)夢の棘

愛の言葉を 真上に投げて
心の棘で 突き通す
そんな貴方を 知らなくて
今日も来ました 北新地
嘘で飾った 愛ならば 
合歓の 小枝で かき集め
ネオンの海に 捨てようと
今日も来ました 北新地
どうせ儚い 愛と夢
いっそ死ぬまでついてゆく
そんな私に なりたくて
今日も来ました 北新地

(39)地下鉄ブルース

かわいい女と 囁かれ
許した身体の 冷めぬ間に
真赤な爪を剥ぐように
無情の駅に 捨てられて
髪を短く切りました
愛子は哀しい女と 呼ばれます

夜の地下鉄 六本木 
涙で降りた 中目黒
かわいい鬼に なりたくて
始めた恋の かくれんぼ
危険な恋と 気づいても
探した貴方が 見つからず
かんだ小指に 血がにじむ
愛子は哀しい女と 呼ばれます

夜の地下鉄 泉岳寺
涙でにじんだ 西馬込
男と女の終わりには
渇いた風の 遊歩道
涙でにじむ 街灯り
切れた受話器が 悲しくて
心の指輪も 外します

夜の地下鉄 御苑前
涙で降りた 方南町
愛子は哀しい女と 呼ばれます


(40)ひとり草

流れ流れて 街につき
藍子と名前を つけました
一年草の私です 
どうせしがない 根なし草
貴方の情けが うれしくて 
汚れたドレスに 化粧花
咲かせて 今夜も待ってます

四季の移りは 早いもの
藍子の名前も つい忘れ
しばしの恋に また溺れ
見てはならない 夢を見た
場末の酒場の 涙花

酔ってひとりで 日が暮れる
出合って去ったその果てに
藍子の名前はもう聞けぬ
何処へいつても 根なし草

飛んで吹かれて 街の中
冬の時雨に耐えかねて
道行く男を呼び止める
藍子によく似た女です

(41)希望

記憶の谷を過ぎれば 隘路が続いている
そのず―と先に 必ず聞こえるはずだ
心のプレリュード
さあ だから行こう二人で
僕らの体が錆びないように
群青色のバイクを駆って
果てしない戦いの日々を生きる
僕らの旅は 
沈没船の錨をつけて進む
幽霊船のように 頼りないが
あの 隘路の先には
物知りげな 大人たちもいない
干からびたマリアもいない
だから さあ どうしても行くんだ
黄昏にその地を占領されぬうちに
君と僕のセックスを 黒革の鞄に詰め込んで

(41)勘違い

相合傘姿の女に見惚れ
電信柱にぶつかって
こん畜生と舗道の空き缶 蹴飛ばせば 
これがまったく 空振りで
大きく揚げたその足で 駆け出す時の恥ずかしさ
雨はさっきから 降ってます
俺はひとりで傘もなく 急いで飛びこむ雨宿り
髪の濡れた女をみつけ これはしめたとニッコリすれば
嘘か誠か月に星 微笑む笑顔の美しさ
なんとかなるぞとこの女 頻りにサインを送り続け
女もそれに答えるように モジモジとする横顔で
「あのう」と言って そつと 指をさし示す
女は耳の奥まで真っ赤です
なんと俺の社会の窓が開いている
其処へ 彼氏が やって来て
二人で出てゆく 相合傘
きっといつかは俺だって 
明日は咲かそう文明開化

(42)落下

季節風に乗り
不意の登攀者が
青氷の北壁を登ってくる
弧を描いて ハンマーの下で生まれた
新たな悲しみが 木霊する時に
彼の体と現実を 支えているのは
カラビナにハーケン
つま先で氷壁に立ち
ロープを過去から未来に 繰り出す
突然 彼は三十メートルの自由を得る
その代償を 彼よりも 体が先に知る
薄れゆく意識の中で 季節風に乗って
帰ってゆくんだと 彼は言い続ける

(43)二十歳の朝

歴史の眠りから覚めた 
記憶の弓が
憎悪の瞳に燃える
 
白黒の幕の中で
幾重にも  
引き絞られ
不信の荒野に 
朱色の矢を放つ時

戦だと叫んで 
踊り出すのは
女でも子供でもない貴方です
 
男たちはベニヤ造りの裏店で
札束を陰干ししながら嗤っている
革命を知らない僕たちは
遠い海鳴りを聞いている

(44)歩く

無人の駅を鈍行列車が
通過するとき
さようならと別れを告げて
僕らは駅前広場の 
乾いた花を胸につけ

次第に覚束なくなる 
三十歳の坂道を
言い訳の靴下をはき 
調子外れの
怨歌を口ずさんで 
片足を引き摺りながら
何処まで行けば良いのかと
呟きながら行くんだ

(45)女ひとり

秋遥か 遠い長雨の 
都会の谷間を
彷徨い 歩く 私です

私の部屋の合い鍵は
貴方の心の扉をあけられず
牛乳瓶の奥底で 
今もひとりで待ちぼうけ

さようならは聞こえません
二人の歌は唄えない
いつの日か心を癒やす 
迷い鳩 求め探して 
彷徨う 私です

私の願いは届かない
貴方の心は 拾えない石
夜の酒場の片隅で 
今日もひとりで待ちぼうけ
さようならは言えません
二人の歌は聞こえない

(46)便り

相変わらずお元気ですか
今年も貴方の季節が来ましたね
あれから幾歳月経ったでしょうか
故郷では貴方の帰りを待つ山河

さようならと出て行って
今も都会の空の下
何時か国のなまりも消え失せて
二人連れの貴方とすれ違い
 
季節は廻る風車
あれから幾歳月過ぎて 
子供も大きくなりました
都会の貴方はよき夫に 
田舎の私はよき妻で
白髪もだいぶ増えました
  
故郷の姿も変わり果て
屋並みに煙る山河です 
それでも微笑み消えぬ 故郷は
今年も貴方を待ってます
季節は廻る風車 
あい変わらずの 夏ですね

(47)門出

男と女の合言葉 
愛していますか いませんか
虚しい言葉の定めなら 
水銀灯の街角は
開けて 暮れての 繰り返し

男と女がいる限り 
愛していますか いませんか
色あせて壊れて 風に散ってゆく
所詮 虚しい遊戯です (旅 出港 漂泊)

雨降れば 旅に疲れた心の襞を 
安息と云う名の アイロンで伸ばし
人生の港を出てゆく 
何処から来て 何処へ去るのか
誰も知らない その船は
荒波を 裂けてばかりはいては捗らぬ

灼熱の砂漠で 隊商が 
しばし 立ち止まる 砂嵐に似て
目的も忘れて 彷徨う 明日があるのです

(48)旅人の暮六つ

私は時には旅先で 
汚れた短靴のまま
人々の静かな営みの中に 
踏み込んでゆく

次第に顕われる
都会の異端児の私に
怯えることもなく 
眠り続ける 揺り篭の赤子と
柱の大時計の振り子

或日の午後 当てどない旅路に
出港した船の航跡が
私の心の印画紙に 
二重写しになっている
ああ 私の漂泊は 尽きない

(49)野良犬

都会の営みが 眩く映るとき
少しばかり ドロップアウトした 日々を送る
アウトサイダー達は 暗闇に向かって
不能と罵り 走り出す

肥満した腹を抱えて 
ひっくりかえっていた 
野良犬の目に 
黄金のマントをかぶり
古傷を癒やす 
アウトサイダー達が映る
逃げ出すのかと叫んで 迫ってくる

因習の絆を退けて 独りで出てゆくのは
女でも子供でもない 私
「都会の夜は 不連続に 暗い」
それが アウトサイダー達の 合言葉だ

(50)青馬

黄昏の牧場から 青馬に乗り
疾走する都会の男を 荒野に見た

その腕に抱かれる 黒髪の乙女
その心に眠る 隠微な情欲を
駆り立てるように 青馬は走る

けれども 都会の垢に汚れた
男の眼は 虚ろに 瞬きもせず
遥か彼方を 眺めている

駒音も高く 去りゆく 
青馬の後ろに 訪れる静寂は
都会の ざわめきの後に来る
疲労の綱を ゆっりと引く

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2016年7月15日 (金)

『儀海史料真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説』

『儀海史料真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説』
                           清水太郎
 大疏指心鈔 十六冊(頼瑜述)
 『大日経疏指心鈔』(ダイニチキョウショシシンショウ)が正式名で、大疏指心
鈔は異名である。執筆年代は弘長元年(一二六一)~健治四年(一二七八)。本書は『大日経疏』の「入真言門住心品第一」、「入真言門住心品之余」、「入真言門住心品之余」の第三巻までに対する注釈書である。『大日経疏』の文章を適宜に切り分け、その中の語句の説明、あるいは重要な語句に関しては、種々の経典や論書、また先学者の意見を取り上げ、問答している。頼瑜は加持身説法を唱えたことで有名である。この『大日経疏指心鈔』はその加持身説を唱えたという根拠があるとして知られている。
加持身説法というのは、『大日経』の教主は誰なのかということであるが、その延長線上の、密教の教主は誰なのかということである。毘盧遮那仏が教主であることに、それぞれの学者は、異存がない。しかし、その毘盧遮那仏は法身であり、法身は理身として考えられており、説法するかどうかの問題に関しては、顕教の経典では、言語等をもたないで説法しないといわれている。弘法大師空海は『弁顕密二教論』等において、密教と顕教の違いは、密教は「自受用法性仏が内証智の境を説く」といい、これが法身説法であるという。また『弁顕二教論』の下巻において、「金剛頂経所談の毘盧遮那仏自受用身所説の内証自覚理智の法とは、即ち理智法身の境界なり」といっており、そこで毘盧遮那仏と自受用身、そして理法身と智法身の考えが複雑に交錯する。『大日経疏』では、「薄伽梵とは、毘盧遮那本地法身なり。次に如来とは、是れ加持身なり。其の所住の処を仏受用身と名つく」とある。「次云如来是仏加持身」が頼瑜の加持身説を唱える重要な部分である。そこでは、智証大師円珍・般若寺の観賢・木幡の信証・済暹僧都の意見を挙げ、「私に案ずるに、仏加持身とは、上の薄伽梵句の中を指す、彼の句は本地加持を含むが故に。本地無相位に、言語無し。加持身、これ今経の経主なる故に、曼荼羅中台の尊というなり」とあり、加持身説を立てている。

釈論開解鈔(しゃくろんかいげしょう)
 異名を『釈摩訶衍論開解鈔』という。本書は頼瑜による『釈摩訶衍論』の註釈書で、執筆年代は建長八年(一二五六)~弘安六年(一二八三)である。

『釈摩訶衍論』(しゃくーまかえんーろん)は略して釈論という。竜樹の造、後秦の筏提摩多(ばつだいまた)の訳と伝えられるが、七・八世紀頃に新羅か中国で作られたものと思われる。大乗起信論の詳細な注釈書。古くより偽撰説がある。日本でも天応元年(七八一)に戒明によって伝えられて以来、偽撰とするものが多い。日本では空海が真言所学論典に加えて以後、多くの研究・注釈がなされ、真言宗(東密)で重用された。頼瑜は真言宗の立場から、偽撰説を排して、顕・密を対弁している。
【大乗起信論】大乗仏教の論書。馬鳴(めみよう)の著と伝えられるが、五~六世紀の成立か。真諦(しんだい)訳一巻、実叉難陀(じつしゃなんだ)訳二巻がある。一心を基にして現実相(生滅門)と永遠相(真如門)を関係づけたもの。その中の「本覚」という用語は有名。大乗仏教の入門書として広く読まれる。略称、起信論。

 五大虚空蔵念誦次第
五大虚空蔵とは虚空蔵菩薩の徳あるいは智を五方に分けた五尊の総称。東方の福智(金剛)、南方の能満(宝光)、西方の施願(蓮華)北方の無垢(業用)、中央の解脱(法界)の各虚空蔵菩薩をいう。念誦は心に念じ、口に仏の名号または経文を唱えること。密教では、本尊の真言を観じてとなえ、本尊と自己との身・口・意のはたらきが1体となって成仏しようとすることをいう。東密では正念誦(念誦、次第念誦)と、散念誦(随意念誦、諸雑念誦)の二種がある。

 宝鑰愚草(ほうやくぐそう)
宝鑰は略称で『秘蔵宝鑰』が正式な名称である。空海の著で真言宗の教判である十住心の各々の行相と典拠を説いたもの。淳和天皇が天長年間(八二三~八三四)諸宗の碩徳に勅して各々その宗要を録し奏進させたとき、空海は秘密曼荼羅十住心論一〇巻を撰して上奏したが、その文が広博であったので重ねて勅を賜りこの書を奏進したものという。従って十住心論を広論といい、本論を略論という。本文には十住心の名数を列ね各条には引用経論を最小限に止めて簡略化している。
宝鑰愚草は宗祖弘法大師空海の著作に対し、伝法会談義に際して為された議論の内容を頼瑜が編集したものである。

 宝鑰勘注
宝鑰勘注は略称で『秘蔵宝鑰勘注』が正式な名称で、弘法大師の著作『秘蔵法鑰』三巻に対する注釈書である。頼瑜法印七十歳、永仁四年(一二九六)の時の著作で八巻よりなる。『秘蔵法鑰勘注』は『秘蔵法鑰』の全文を挙げ、適宜
に分割し、『秘蔵法鑰』の引用する経論を丹念に取り上げている。

菩提心論愚草
詳しくは金剛頂(こんごうちょう)瑜伽中発(ゆがちゅうほっ)阿耨多羅三藐(あくのくたらさんみゃく)三菩提心論という。龍猛(竜樹)の造、唐の不空の訳と伝える。菩提心をおこすことを勧め、密教の立場から菩提心を行願・勝義・三摩地の菩提心に分けて説く。空海が重要視し、そののち日本の真言宗でひろく学習された。十巻章、二十五巻書の一つである。天台密教の系統では、竜猛の造とせず不空の集という。頼瑜が伝法会談義に際して為された議論の内容を編集したものである(愚草)

 声字実相義愚草(しょうじじっそうぎぐそう)
声字実相義は空海の著。言葉と文字の本質を密教の立場から解明したもの。声字実相義愚草は頼瑜によって文永六年(一二六九)に著されたもので、伝法会の議論を書き記した問答形式の注釈書である。
【声字実相義】平安初期、真言宗開祖空海の著作。一巻。『声字義』ともいう。〈声〉は音声・言語、〈字〉は真実・真理の意味で、普通の考え方では言語や文字は真理(悟りの内容)を表現することはできないとするが、本書では真実の仏(法身)は自らのはたらき(身と口と意の三密)として言語と文字を示すから、真実の仏の声・字そのものが真実をあらわすと説く。これを声字すなわち実相という。真言宗で説く真言は真実語であるという思想。法身説法の思想を明らかにした言語哲学の書である。

 吽字義秘訣(うんじぎひけつ)
『吽字義探宗記』は弘安三年(一二八〇)七月に頼瑜が著した書で、平安初期の空海著作一巻、『吽字義』の注釈書である。そのなかで「諸字の義に優劣はないというものの、吽字は諸仏の本源であり、諸法の能生であるからこの字を釈して顕密の因行果を摂し、教理行果の四法を摂する。顕教においては真如を法体とするが、真言においては吽字をもって真如の所依とする。弘法大師空海は即身義、声字義、吽字義によって三部三密の義を表しており、順次に仏部身密、蓮華部語密、金剛部密となり、吽字は識大の種子であることなどから、章密金剛部を表すためにこの字を釈す。鑁字は金剛智身の種子であり、阿字は胎蔵理仏の種子であるが、吽字は金胎両部一心理智不二の種子であるからこの字を釈す」と書している。秘訣とは「事を行うのに最も効果が多くて、しかもめったに他人に知らせない法。奥儀」である。
【吽字義】平安初期、真言宗開祖空海の著作。一巻。〈吽〉という字を字相と字義とのニ方面から解明した書。字相とは字の直接的意味で、吽は訶(h)、阿(a)、汙(u)麼(m)の四字合成の語であり、〈訶〉は因で、一切諸法は因縁より生ずるの意味。〈阿〉は本初で、一切の字の母、一切の声の体、一切の実相の源であるの意味。〈汙〉は損減で、一切諸法の空・無常・無我の意味。〈麼〉は増益で、一切諸法に我・人があるの意味をもつ。字義は字の真実の意味で、密教独特の深い意味を示すが、これに別釈と合釈がある。別釈では、因・本初・損減・増益は、真実の立場すなわち空の立場からすれば、すべて不可得であると説く。合釈ではこの四字は順次に法身・報身・応身・化身、または理・教・行・果のいみであり、また因・根・究竟の三句を示すとも説き、これらの密号・密義を知るものは正覚を生ずるという。字義を通じて密教の基本的教義を明らかにした言語哲学の書である。

 即身義眼目鈔
即身義は真言密教の根本教義である即身成仏の義を説いたもの。他宗の宗義はいずれも、三劫成仏(歴劫成仏)の説をとるのに対して、肉身そのままで仏と平等なさとりが得られるとする。眼目鈔とは物事の肝心なところ。主眼。要点。

二教論指光鈔
本書の正式名称は『辨顯密二教論指光鈔』で、弘法大師の『辨顯密二教論』に対する注釈である。加持身説を打ち立てた頼瑜の教学を知る上で重要な価値を持っており、特に新義派で尊重されている。本書は『二教論』の全文を適宜に区切って引用しながら、その文句を一々解説している逐語釈となっている。
【弁顕密二教論】平安初期、真言宗開祖空海(弘法大師)の著作。二巻。弘仁六年(八一五)ころの作か。顕教(法相・三論・天台・華厳の四宗)と密教(真言宗)との差別・優劣を弁別し、真言宗の優越性と独立性を明らかにしたもの。顕密二教の教相判釈を説く。本書は「序説」と「引証喩釈」と「結語」とから成る。多くの引証文をあげるが、その趣意を要約すると、第一能説の仏身、第二所説の教説、第三成仏の遅速、第四教益の勝劣について顕密二教の著しい相違を説く。

二教論愚草
弘法大師の『辨顯密二教論』への注釈で、『二教論』の中から論題を設定し、その第について問答形式で論議している、いわば堅義の草本のようなものである。このように論議形式で著されたものはすべて『愚艸』と呼ばれている。

即身成仏義顕得鈔(そくしんじょうぶつぎいけんとくしょう)
本書は頼瑜三十二歳の時、正嘉元年(一二五七)に高野山において著されたものである。現存する『即身成仏義顕得鈔』は、文永四年(一二六七)に頼瑜自身が再冶し、翌年に訓点をほどこしたものである。『即身成仏義』の逐語釈となって、全文を適宜に分けて引用し、これに注釈を加える形で論が進められている。凡そ七十部の転籍が参照されている。このうち、頼瑜が『即身成仏義』を解釈する上で主な拠り所としたのは、『異本即身成仏義』と『即身成仏義章』である。『即身成仏義章』は覚鑁の著作になるが、この他にも、『五輪九字明秘密釈』『心月輪秘釈』『淨菩提心私記』など、覚鑁の著作が多く依用されている。「三密」について解釈する中で、「一密成仏」の問題を取り上げて論じている箇所もみられる。また、当時流行していた本覚思想を背景に、「草木成仏」について言及しており、これに関連して、有情非情の成仏を以下のように分類する教相判釈を展開している。
一、 但し仏一人のみ仏性有り…小乗
二、 多人、性有りと雖も、一分の無性を許す…法相
三、 一切衆生、皆、仏道を成ず…三論
四、 有情非情、倶に成仏す
  (一)、事理相即して成仏を論ずると雖も、理を以て本とす…天台
  (二)、事理鎔融して成仏を談ずると雖も、事を以て宗とす…華厳
  (三)、三密相応して、成仏を明かす…真言
そこで、天台、華厳は、非情の成仏を説いても理念的なものであり、ただ真言だけが、真実の色心不二を説くとしている。また、こうした教理的な問題ばかりでなく、即身成仏をめぐる実践的な問題についても言及されている。問答の中には、三密行を修することによって即身成仏できるのか、道場で妄念が起つたり、また道場から出て雑務を行っている時も、即身成仏しているのか、といった具体的な問題を扱ったものもある。

 十住心論引文・愚草
十住心論は空海が大日経・菩提心論を正所依とし、顯密諸経論章疏・儀軌・外典などを広く引用して、一〇種の住心をたてて真言行者の心品転昇の次第を論じたもので、頼瑜には十住心論にたいして引文・愚草・勘文・第五勘文・衆毛抄・衆毛鈔等の注釈書がある。
【十住心】空海の十住心論に説く一〇種の心のありかた。異生羝羊心・愚童持斎心・嬰童無畏心・唯蘊無我心・抜業因種心・他縁大乗心・覚心不生心・一道無為心・極無自性心・秘密荘厳心。この順で次第に低い段階から高い段階へとのぼっていく。

 瑜祇経拾古鈔巻下(ゆぎきょうしゅうこしょう)
『瑜祇経』の注釈である。『瑜祇経拾古鈔』の上巻、下巻にはそれぞれ奥書が記されているが、それらによれば、弘安七年(一二八四)の三月中旬、生年五十九歳の時に醍醐寺で執筆し、さらに弘安十年(一二八七)十二月二十三日、生年六十二歳の時に、紀州根来寺で加点したようである。
『瑜祇経』は、世尊金剛界遍照如来が、自性所成の眷属とともに、光明心殿に住して、三十七尊の心真言を説き、さらに、金剛愛染王の心真言、摂一切阿闍梨行位の真言、菩提心の真言、愛染王の修法、大勝金剛頂の真言、仏眼の真言、、内護摩、外護摩、五部の潅頂法、大焔金剛夜叉の修法などを説く。真言宗では、この『瑜祇経』を両部不二の深義を説く経典として重視する。

 陀羅尼儀愚草
【陀羅尼】サンスクリット語の音写で〈総持〉〈能持〉などと漢訳する。経典を記憶する力、善法を保持する力を原義とし、さらに呪文の意として用いられるようになった。〈呪文〉は本来、修行者が心の散乱を防いで集中し、教法や教理を記憶し保持するために用いたもので、すでに大乗仏教の時代に盛行しており、密教の時代になるとさらに言葉に内在する存在喚起の効能に期待する性格を強めた。同じく呪文としては〈真言〉や〈明呪〉さらには〈心真言〉があるが、言葉によって存在を喚起し、事象を支配するという本質は同じである。陀羅尼はそれのうちでは比較的長く、まず「ノウマク・サマンダボタナウ」という帰敬の辞に始まり、諸々の仏菩薩、神などに対する多くのエピセット(形容句)を連ね、祈願をし、最後に「ソワカ(蘇婆訶)」で結ぶ形式をとる場合が多い。

 理趣教文句愚草
【理趣教】般若理趣教ともいう。日本密教の真言宗で常時読誦される経典で、詳しくは〈大楽金剛不空真実三摩耶教般若波羅蜜多理趣品〉という。一巻。不空訳。本来、玄奘訳の〈大般若教〉(六〇〇巻)に含まれる「理趣分」を祖型とする般若経典であるが、それが密教化されたもので、密教内の伝承では金剛頂教十八会のうちの第六会をなすものとされる。
内容は十七段よりなり、各段の末尾に密教的な種子(その段の内容を代替しうるはずの特定のシラブル)を付するが、殊に初段に「妙適清浄句是菩薩位」以下のいわゆる十七清浄句が説かれ、この内容が男女の性行為に関わり、かつその行為そのものを肯定するがごとき意味にとりうるものであるため(因みに妙適とは、男女の性行為による快楽の状態を意味する)、この経典は仏教では本来否定され、抑圧さるべきものとしての性欲を肯定し、解放し、それによって密教の宗教理想たる諸仏の大楽の境地に冥合せんとする革命的な思想を宣明するものであるとの理解がなされている。しかし、この十七清浄句に相当するものは、すでに玄奨訳の「理趣分」中に存することから、そのような一見性欲肯定的な表現には般若経典を誦持する菩薩たちの内面性に対する比喩としての性格が見出されねばならず、またこの経典それ自体の趣旨は、例えば要約部分としての百頌偈の「菩薩勝慧者、乃至尽生死、恒作衆生利、而不趣涅槃」以下の偈が示す通り、純粋に大乗的である。
この経典の読誦の習慣を定めたのは空海であるが、その場合彼はこの経典のたとえば同じ初段の「金剛手よ、若し此の清浄出生句の般若の理趣を聞くもの有れば、乃し菩提道場に至るまで一切の蓋障及び煩悩障法業障を設え広く積集するとも必ず地獄等の趣に堕ちず、設え重罪を犯すとも消滅すること難からず」という表現が示す如き罪障の消滅や堕地獄を防ぐ呪術的な効力に注目したものであろう。

法華開題愚草
『法華経開題』は空海の著。『法華開題愚草』は頼瑜の『愚草』なる著作群の一つである。宗祖弘法大師空海の主要な著作に対し、伝法会談義に際して為された議論の内容を頼瑜が編集したもの。開題は仏教経典の題目について解釈しその大要を述べること。
【法華経】第一期(初期)大乗経典に属し、紀元五〇年から一五〇あたりにかけて成立したと考えられる経典。現在の漢訳本は、竺法護訳〈正法華経)(一〇巻二七品。二八六年訳)、鳩摩羅什訳〈妙法蓮華経〉(七巻二七品、のち八巻二八品。四〇六年訳)、闍那崛多・達摩笈多訳〈添品妙法蓮華経〉(七巻二七品、羅什訳の補訂。六〇一年訳)の三本であるが、羅什訳がもっぱら用いられてきた。一九世紀以後、ネパール、チベット、中央アジア、カシミール(ギルギット)などで原典写本が相次いで発見され、漢訳本と対比しながら、改めて法華経の成立状況や特色について研究が進められている。
【構成と内容】法華経は、伝統的には「安楽行品第十四」と「従地涌出品第十五」の間で区切りが入れられ、前半は「方便品第二」を中心として統一的真理(一乗妙法)を明かし(開三顕一)、後半は「如来寿量品第十六」を中心として永遠の仏(久遠釈迦)を明かす(開近顕遠)とされた。天台智顗(五三八―五九七)は『法華文句』において、前半を〈迹門〉、後半を〈本門〉と称し、それぞれの特色づけに努めた。ところで、原典の成立状況からすると、もう一つの部門が立てられてくる。それは、「法師品第十」から「嘱累品第二十二」(「提婆達多品第十二」を除く)までの部分で、大乗の菩薩ないし菩薩行が強調されている。たとえば「法師品」では、苦難を耐え忍んで慈悲利他の菩薩行に励む者が〈如来使〉とたたえられ、「従地涌出品」では、その典型として地涌の菩薩のことが、「常不軽菩薩品第十二」では常不軽菩薩のことが物語られ、「如来神力品第二十一」および「嘱累品」では、菩薩たちに布教の使命付与(付嘱、嘱累)がなされる。
【特色】以上、伝統的立場と成立史的観点とを合わせて結論すると、宇宙の統一的真理(一乗妙法)、久遠の人格的生命(久遠釈迦)、現実の人間的活動(菩薩行道)が法華経の三大特色といえよう。それらは大乗仏教の三要素(法・仏・菩薩)をなすもので、古来、宗派の別なく注釈書が著されたり、法華思想の体系化がはかられたりした。一方で、他の代表的な大乗仏典との関係や優劣が論ぜられた。例えば中国の五・六世紀におきた教相判釈において、真理の統一性を説き明かしたものとして法華経を万全同帰教、純一性を説き明かしたものとして華厳経を頓教、永遠性を説き明かしたものとして涅槃教を常住教と規定し、それらの間の優劣が論議された。
【日本における展開】日本では、聖徳太子の『法華義疏』(真偽問題がある)が法華教注釈の始まりであるが、平安初期に最澄が出て、天台法華宗を樹立し、
鎌倉中期に日蓮が出て、改めて法華思想の体系化に努める。一般では信仰や書写の功徳が説かれた部分に目を付け、除災招福や懺悔滅罪のための法会が営まれ、法華経を書写する行事がなされるにいたる。また法華八講など、法華経を講説する法会が催されたり、のちの法華経各品の内容が絵図に表されたり(法華曼荼羅)、説法(絵解き)に用いられたりした。文芸面では、釈教歌の多くが法華経歌であり、説話にもしばしば法華経が引用されるなど、法華経は民間に広く流布するようになり、今日に至っている。なお法華経の霊験功徳譚の編集は、中国や朝鮮(高麗)でも行われた。その中で唐の僧詳撰『法華伝記』、恵詳撰『弘賛法華伝』、新羅僧の義寂撰『法華経集験記』(『法華験記』)などは日本にも伝来し、同類国書の成立をうながした。その代表的なものが鎮源撰『法華験記』(『大日本国法華経験記』)である。また『梁塵秘抄』に収める「法華経二十八品歌百十五首」なども、法華経各品を今様に歌えあげた法文歌の圧巻として注目すべきものであろう。

  御遺告釈疑抄(ごゆいごくしゃくぎしょう)
一般に、弘法大師空海撰と言われる『御遺告』には四本が知られている。それは、『太政官符案并遺告』『御遺告』『遺告真然大徳等』『遺告諸弟子等』である。これらは相類似した内容を有するものであるが、『御遺告』(二十五箇条)は東寺の立場から述べられているのに対し、『太政官符案并遺告』や『遺告真然大徳』は高野山の立場に依拠しているなど、それぞれ差違が認められる。頼瑜の『御遺告釈疑鈔』は「問う。東寺真言家と文へり」云々という文章から始まり、第九の問に至るまで、『御遺告』(二十五箇条)の1本のみに認められる文章を解釈しており、一見して、四本の『御遺告』の中でも『御遺告』(二十五箇条)にたいする注釈書であることが知られる。
『御遺告釈疑抄』は、その奥書によると、弘長二年(一二六二)三月、頼瑜三十六歳の時に撰述されたものであるという。そこでは、撰述の動機として「忝なく師長の命を承り」とのべられているが、弘長元年六月以後、頼瑜は醍醐寺報恩院憲深に随っており、このことから憲深の要請を受けていたことが予想される。
『御遺告釈疑鈔』以前の『御遺告』注釈書としては、実運(一一〇五~一一六〇?)の『御遺告秘決』、尚作(?~一二四五)の『御遺告勘註』等が知られる。

法華開題愚草
『法華経開題』は空海の著。『法華開題愚草』は頼瑜の『愚草』なる著作群の一つである。宗祖弘法大師空海の主要な著作に対し、伝法会談義に際して為された議論の内容を頼瑜が編集したもの。開題は仏教経典の題目について解釈しその大要を述べること。
【法華経】第一期(初期)大乗経典に属し、紀元五〇年から一五〇あたりにかけて成立したと考えられる経典。現在の漢訳本は、竺法護訳〈正法華経)(一〇巻二七品。二八六年訳)、鳩摩羅什訳〈妙法蓮華経〉(七巻二七品、のち八巻二八品。四〇六年訳)、闍那崛多・達摩笈多訳〈添品妙法蓮華経〉(七巻二七品、羅什訳の補訂。六〇一年訳)の三本であるが、羅什訳がもっぱら用いられてきた。一九世紀以後、ネパール、チベット、中央アジア、カシミール(ギルギット)などで原典写本が相次いで発見され、漢訳本と対比しながら、改めて法華経の成立状況や特色について研究が進められている。
【構成と内容】法華経は、伝統的には「安楽行品第十四」と「従地涌出品第十五」の間で区切りが入れられ、前半は「方便品第二」を中心として統一的真理(一乗妙法)を明かし(開三顕一)、後半は「如来寿量品第十六」を中心として永遠の仏(久遠釈迦)を明かす(開近顕遠)とされた。天台智顗(五三八―五九七)は『法華文句』において、前半を〈迹門〉、後半を〈本門〉と称し、それぞれの特色づけに努めた。ところで、原典の成立状況からすると、もう一つの部門が立てられてくる。それは、「法師品第十」から「嘱累品第二十二」(「提婆達多品第十二」を除く)までの部分で、大乗の菩薩ないし菩薩行が強調されている。たとえば「法師品」では、苦難を耐え忍んで慈悲利他の菩薩行に励む者が〈如来使〉とたたえられ、「従地涌出品」では、その典型として地涌の菩薩のことが、「常不軽菩薩品第十二」では常不軽菩薩のことが物語られ、「如来神力品第二十一」および「嘱累品」では、菩薩たちに布教の使命付与(付嘱、嘱累)がなされる。
【特色】以上、伝統的立場と成立史的観点とを合わせて結論すると、宇宙の統一的真理(一乗妙法)、久遠の人格的生命(久遠釈迦)、現実の人間的活動(菩薩行道)が法華経の三大特色といえよう。それらは大乗仏教の三要素(法・仏・菩薩)をなすもので、古来、宗派の別なく注釈書が著されたり、法華思想の体系化がはかられたりした。一方で、他の代表的な大乗仏典との関係や優劣が論ぜられた。例えば中国の五・六世紀におきた教相判釈において、真理の統一性を説き明かしたものとして法華経を万全同帰教、純一性を説き明か
したものとして華厳経を頓教、永遠性を説き明かしたものとして涅槃教を常住教と規定し、それらの間の優劣が論議された。
【日本における展開】日本では、聖徳太子の『法華義疏』(真偽問題がある)が法華教注釈の始まりであるが、平安初期に最澄が出て、天台法華宗を樹立し、鎌倉中期に日蓮が出て、改めて法華思想の体系化に努める。一般では信仰や書写の功徳が説かれた部分に目を付け、除災招福や懺悔滅罪のための法会が営まれ、法華経を書写する行事がなされるにいたる。また法華八講など、法華経を講説する法会が催されたり、のちの法華経各品の内容が絵図に表されたり(法華曼荼羅)、説法(絵解き)に用いられたりした。文芸面では、釈教歌の多くが法華経歌であり、説話にもしばしば法華経が引用されるなど、法華経は民間に広く流布するようになり、今日に至っている。なお法華経の霊験功徳譚の編集は、中国や朝鮮(高麗)でも行われた。その中で唐の僧詳撰『法華伝記』、恵詳撰『弘賛法華伝』、新羅僧の義寂撰『法華経集験記』(『法華験記』)などは日本にも伝来し、同類国書の成立をうながした。その代表的なものが鎮源撰『法華験記』(『大日本国法華経験記』)である。また『梁塵秘抄』に収める「法華経二十八品歌百十五首」なども、法華経各品を今様に歌えあげた法文歌の圧巻として注目すべきものであろう。

御遺告釈疑抄(ごゆいごくしゃくぎしょう)
一般に、弘法大師空海撰と言われる『御遺告』には四本が知られている。それは、『太政官符案并遺告』『御遺告』『遺告真然大徳等』『遺告諸弟子等』である。これらは相類似した内容を有するものであるが、『御遺告』(二十五箇条)は東寺の立場から述べられているのに対し、『太政官符案并遺告』や『遺告真然大徳』は高野山の立場に依拠しているなど、それぞれ差違が認められる。頼瑜の『御遺告釈疑鈔』は「問う。東寺真言家と文へり」云々という文章から始まり、第九の問に至るまで、『御遺告』(二十五箇条)の1本のみに認められる文章を解釈しており、一見して、四本の『御遺告』の中でも『御遺告』(二十五箇条)にたいする注釈書であることが知られる。
『御遺告釈疑抄』は、その奥書によると、弘長二年(一二六二)三月、頼瑜三十六歳の時に撰述されたものであるという。そこでは、撰述の動機として「忝なく師長の命を承り」とのべられているが、弘長元年六月以後、頼瑜は醍醐寺報恩院憲深に随っており、このことから憲深の要請を受けていたことが予想される。
『御遺告釈疑鈔』以前の『御遺告』注釈書としては、実運(一一〇五~一一六〇?)の『御遺告秘決』、尚作(?~一二四五)の『御遺告勘註』等が知られる。
 
 東禅院印信
平安期末の悉曇学者、東禅院心蓮(治承五年寂)の印信。鎌倉時代の中期建長元年(一二四九)に醍醐寺の僧深賢の書写本がある。
【心蓮】平安後期の真言僧 ?~治承五年(一一八一)四月十八日没。諱は心蓮。号は理覚。長く高野山に住して顕密二教を研究し両部大法、諸尊秘軌を相承する。仏像を多く作り、十数年にわたって護摩を修し、千手法を四十数回行ったという。
【深賢】?~弘長二年(一二六二)真言宗の僧。字は淨林。按察法印、地蔵法印と号す。初め醍醐金剛院聖賢について潅頂を、次いで健保三年(一二一五)遍智院成賢から職位伝法を受けた。歴仁二年(一二三九)幼弟の親快に伝法潅頂を授け、聖教・儀軌を授与したという。醍醐寺内に地蔵院を創建して開祖となる。その法流を地蔵院流といい、三宝院の正統と称される。蔵書家としても有名で、正元元年(一二五九)以前のかれの書状によると、「八怗本」の平家物語を所持していた。平家物語の成立過程に新たな問題を提起した書状として注目されている。著書、『普賢延命記』、『五大虚空蔵記』、『秘蔵記抄』など。

 秘蔵記勘文
 『秘蔵記』二巻。空海の著。成立年不詳。密教の要義である両部曼荼羅・四種檀法・三部五部・道場観・三句五転・潅頂・本尊などについて約一〇〇条を挙げて解説したもの。著者については古来⑴不空の口説・恵果の記。⑵恵果の口説・空海の記の二説がある。⑴は不空の没後に来唐した般若三蔵の翻訳である守護・六度二経をあげ、その口訣が註してあるから、この説は信じることができない。杲宝の秘蔵私鈔第一には深賢の鈔を引いて⑵の説を用い、以後東密ではこの説を尊重している。しかし空海・杲燐などの口説を霊厳寺円行が記したものという説がある。頼瑜はこの『秘蔵記』に注釈を加えたものである。

 妙印抄 (大日経疏妙印鈔口傳 宥範)

 潅頂作法 醍醐口伝

【潅頂】(梵)アビシェーチャナ(阿鼻詮左)あるいはアビシェーカ(阿毘世迦)の訳。水を頭頂にそそぐこと。密教では法を伝え、仏縁を結ばせるための作法として重んじる。
古代インドでは即位式や立太子礼において、国王となるべき人の頂に四大海水をそそぐ即位潅頂の儀式が行われたが、大乗仏教では、これを菩薩が修行の最終階位で仏となるべき資格を得るのになぞらえ、法王の職位をうけて諸仏の智水がその頂に注がれると解されるようになった。のち密教になると、如来の五智を象徴する水を行者の頂にそそぐ儀式が行われるに至り、中国・日本にも伝わって、日本では延暦二十四年(八〇五)最澄が高雄山寺で初めて行った。東寺では承和十年(八四三)実慧が勅許を得て、潅頂院で春秋二季に伝法・結縁の両潅頂を行い、同十三年からは秋季のみとなった。延暦寺では嘉祥二年(八四九)、一説に仁寿元年(八五一)ともいう。円仁が鎮護国家のために潅頂を修し、例年朝廷から潅頂料を給された。高野山では応徳三年(一〇八六)から東寺に準じて、康和三年(一一〇一)から春秋二季に行われた。
伝法潅頂 受職潅頂、伝教潅頂、阿闍梨潅頂、得阿闍梨位潅頂、ともいい、所定の修行を経て伝法阿闍梨となろうとする者が大日如来の秘法を授かるために行う特別の潅頂。
受明潅頂 弟子潅頂、学法潅頂、受法潅頂、持明潅頂ともいい、密教の弟子になるために行う潅頂。
結縁潅頂 多くの人に仏縁を結ばせるため投華得仏の法によって行う簡単な儀式。
金剛界・胎蔵界の各法によりまたは両部を合わせ行う金剛界潅頂・胎蔵界潅頂・両部合
行潅頂、即身成仏義の深秘口訣を授ける即身義潅頂、空海御遺告の難解七箇の大事を授ける御遺告潅頂、悉曇の難解を明示する悉曇潅頂などがあり、台密では蘇悉地経に基づき両部不二の説によって修する蘇悉潅頂があり、この他に多くの潅頂がある。

 秘鈔(抄)口决・聞書・異尊聞書
『秘鈔』一五~一八巻など。守覚法親王(一一五〇~一二〇二)の著。成立年不詳。東密小野流所伝の諸尊法を集めたもの。およそ六〇尊法および付法五種をあげている。親王は初め広沢流を保寿院覚成に受けて沢見・沢鈔などを著したが、また醍醐の覚洞院勝賢に小野流を受けて野鈔(野月鈔)を作り、さらに勝賢に問うて口伝を集めて野決鈔とし、この野鈔と野決鈔とをあわせ類聚して勝賢の許に遣わし、印可を求めた。以来醍醐では秘鈔と呼び、広沢方では白表紙また広蓋鈔と呼ぶ。頼瑜は秘鈔問答二二巻を著している。

 駄都法口决抄
駄都法は、舎利法また米粒法(米粒を舎利というによる)ともいう。駄都(梵字ダートゥ)は如来の舎利をいい、この修法は道場の中央に仏舎利を安置し、舎利を如意宝珠として観ずる密教の最極秘法。空海の遺言により師資の口伝によって相承される。この法は末法の衆生を利益するために行うという。駄都法と如意宝珠法との異同について、三宝院流と観修寺流との間に説が分かれている。

 退蔵入理鈔(たいぞうにゅうりしょう)
頼瑜著。異名を野胎入鈔。執筆年代、正安二年(一三〇〇)九月十二日。奥書によれば頼瑜が七十五歳の時にある人に頼まれて、根来寺の中性院において著されたものである。小野の諸流で用いられる淳祐の弟子延命院元杲(一一九二~一二六三)作の『退蔵界念誦次第(退蔵界念誦私記、広次第)』に対する注釈で、本書より五年前に著された『金剛界発恵鈔』の姉妹編である。本書では、本軌である『大日経』や『大日経疏』、弘法大師や興教大師の著作をはじめとした多くの東密諸師の次第や釈、台密諸師の次第や釈などを引用しながら、「私に云く」として、頼瑜自身の意見を交えて、主に教理的な意味の説明を中心として解説している。頼瑜の晩年の著作であることから、諸流を兼学してきた胎蔵法に関する集大成ともいうべき著作である。
【胎蔵界】理性がすべてのものに内在して大悲によって守り育てられているのを、胎児が母胎内にあり、蓮華の種子が華の中に包まれているのに喩えて、理、因、本覚、化他などの意をあらわすのが胎蔵界。
金剛界奥義集
【金剛界】真言密教では、胎蔵(界)と対をなして、〈両部〉という。胎蔵を客体すなわち〈理〉とするのに対し、金剛界を主体すなわち〈智〉(智慧)とし、真理は主客一体、智と理の不二であると説く。〈金剛界〉とはダイヤモンドのような堅固な悟りを体とするという意味で、それを表現したものが〈金剛界曼荼羅〉である。奥義とは学芸や武術などの奥深い肝要な事柄。極意。

 金光明経開題(こんこうみょうきょうかいだい)
【金孔明経】大乗経典の一つ。曇無識、真諦約、闍那崛多、義淨訳という四訳が知られるが、完本として残るのは曇無識訳四巻と義浄訳一〇巻のみである。後者の正式の名称は〈金光明最勝王経〉であり、〈最勝王経〉と略称される。護国経典として名高い。開題とは経典の題目について解釈し、その大要を提示すること。

 陀羅尼儀愚草
【陀羅尼】サンスクリット語のダラー二―の音写で、〈総持〉〈能持〉などと漢訳する。経典を記憶する力、善法を保持する力を原義とし、さらに呪文の意として用いられるようになった。普通には長句のものを陀羅尼、数句からなる短いものを真言、一字二字などのものを種子という。

 止観勘文
【止観】もろもろのおもいを止めて心を一つの対象にそそぎ(止)、それによって正しい智慧を起こして対象を観る(観)ことをいう。即ち、定・慧の二法であり、寂照、明静などともいい、この二つは戒と共に仏教徒の重要な実践とされ、阿含をはじめ諸経論の多く説かれる。止と観とは互いに他を成立させて、仏道を完行させるものであるから、不離のかんけいにある。これは鳥の双翼のようであり、車の両輪のようであると喩えられる。勘文とはかんがえぶみ。

 阿字観秘釈
【阿字観】密教で宇宙人生を阿字におさめて、一切法がそれ自体において根本的であり生滅しないものであるという本不生の理を観ずること。密教では菩提心を観想するのに、略して阿字と蓮華と月輪との三種の観じ方がある。この三種はいずれも一心に他ならず、同時に具っているものであるが、初学者の修観の便宜上から区別して別々に観じさせるのであって、このうち、阿字を観ずるのを阿字観といい、これに声と字と実相との三観の別がある。なお、阿字を図画するときに、通常は月輪と蓮華を書いて、月輪中に阿字を置く。

 薄草决(うすぞうけち)
本聖教は、醍醐寺三宝流の本流・學洞院勝賢の附法である遍智院成賢によって類聚された諸尊法集成『薄雙紙』(あるいは『薄双紙』『薄草紙』)の口訣書。
『薄雙紙』は、初重と二重に分けられ、各五十六尊法に目録一怗、都合百十二尊法からなっている。通常、初重の五十六尊法は普通諸尊法と称され、聖天供等のごく一部の尊法を除き、これは未潅頂者にも伝授が許されている。これに対して、二重の五十六尊法は、深秘異尊法として、初重のときとは反対にごく一部の尊法を除いて、已達‖已潅頂者でなければこれらの伝授はうけられないという恒規が定められている。
この『薄草子口訣』は、頼瑜が、醍醐寺報恩院道場において、弘長二年(一二六二)正月九日より、三宝院流の正統、遍智院成賢の附法である報恩院憲深にしたがって、上述の『薄草紙』初重の伝授をうけたおりの委細なる口訣を認めた書である。

   平成二〇年十一月三日
参考資料
広説佛教語大辞典 上・下巻 中村元著
岩波仏教辞典第二版
岩波広辞苑
頼瑜 ―その生涯と思想― 智山伝法院選書

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『儀海年表』

『儀海年表』
                           清水太郎
誕生から三十二歳まで
弘安二年(一二七九)
儀海生まれる。
永仁三年(一二九五)
正月十五日於根来寺大谷院之草庵以草案本書写之畢 金剛資儀海
永仁三年(一二九五)
閏二月十四日根来寺中性院書写畢 頼縁 儀海
正安四年(一三〇二)
六月十五日於常陸国真壁郡亀隈郷成福寺講堂西庫書写畢 (梵字二字)(儀海ヵ)二十三
嘉元二年(一三〇四) 
極月二十七日於常陸国成福寺方丈書了 金剛仏子儀海廿五
嘉元三年(一三〇五)
三月十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈雖書写之或文字堕落或前後錯乱之間重書写畢 
嘉元三年(一三〇五)
三月二十一日於常州真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 二十六(儀海ヵ)
七月二十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 金剛仏子 儀海
七月廿日於常陸国真壁郡亀隈成福寺方丈書写畢 金剛仏子儀海
嘉元四年(一三〇六)
正月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺書写畢 金資儀海廿七
二月廿八日於武蔵国由井横河慈根寺談議所 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七
四月廿九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子(梵字
五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院未資(梵字)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了
五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院末資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了
十月二十二日於武蔵国由井横河菴室亥時書写畢 同月廿三日夜子時一交畢 金剛仏子儀海廿七
拾月弐拾二日於武蔵国由井横河庵主亥時書写之畢 金剛仏子儀海廿七才 
同月廿五日夜子時一交畢
霜月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵子時書写畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)
二月五日武蔵国由井横河慈根寺草庵 金剛資儀海二十八
二月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵依可然善縁此抄物令歳得處也偏右無上菩提染筆處也辰時書写了 金剛仏子儀海
二月廿七日於武蔵国由井横河慈根寺之草庵酉時令染筆畢 金剛資儀海 
四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
六月六日於武蔵国由井横河慈根寺草菴酉尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 三宝院末寺金剛資儀海廿八
六月廿五日於武州由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資儀海廿八
七月七日於武州由井横河慈根寺草菴申尅書写畢 願以書写生々世々値遇大師 敬聞密教 金剛資儀海
七月廿四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
七月二十四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
七月卅日於鎌倉大仏谷巳尅許書写畢 願以書写生々世々値遇大師密教聴聞 金剛仏子儀海
八月十二日於相州鎌倉大仏谷入戌尅令交合畢
八月十二日於相州鎌倉大仏入戌尅令交合畢
九月二十五日日於武州由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛資儀海二十八 
徳治三年(一三〇八)
正月九日於武州由井横河郷巳尅許令染筆畢 金剛資儀海二十九
四月十二日於武蔵国由井横河郷薬坊書写畢 筆師儀海廿九
四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
四月二十九日於鎌倉大仏谷令染筆畢 義海
五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 金剛資義海
五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 金剛資義(儀)海
五月十七日於相州鎌倉大仏谷辰 令染筆了金剛資儀海二十九
徳治三年(一三〇八)
八月廿五日於武州由井横河郷弊坊巳尅書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶元年(一三〇八)
極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九
極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九已上五日畢 本云 
極月廿六日於由井横河慈根寺巳尅令書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶二年(一三〇九)
戌申二月廿日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛資儀海
八月二十八日於武州由井横河慈根寺蔽房書写畢 金剛資儀海三十
八月晦於武州由井横河慈根寺令染筆畢 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)卅
延慶三年(一三一〇)
七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海
七月十五日書写畢 儀海  瑜祇経眼目鈔 一怗(奥書)
七月十五日於武州由井横河郷慈根寺 儀海(顕密問答鈔下 一冊奥書)
六月五日於常州真壁郡山宇以方丈御本重交合畢 元亨三年(一三二  
三)四月十日同侶本文交合畢儀海

三十歳から四十歳まで
延慶四年(一三一一)
正月七日於武州由井横河慈根寺弊坊書写畢 金剛仏子儀海三十二
応長元年(一三一一)
十月二十四日於武州由井横河慈根寺蔽坊閣万事令書写畢 三宝院末資 儀海三十二才
十月廿九日於武州由井大幡永徳寺如法経修申出写畢 金剛佛子儀海三十二
十月廿九日於武州大幡永徳寺如法修中書写畢 金剛仏子儀海三十二
正和元年(一三一二)
六月十九日於武州由井南河口長楽寺西谷草菴談義之間走筆畢 権律師儀海卅二 唯識論一云然諸我執略有二種一者倶生二者分別□倶生我執細故難断後修道中数々修習生定観方能除滅分別我執簾故易断初見道特方聢除蔵之
正和二年(一三一三)
五月十三日於高野山金剛峯寺雖書写之失本之間重後書写之偏戸是為無上菩提興隆仏子也 権律師儀海四十三
五月十七日夜戌尅於高野山蓮華谷誓願院書写了 求法沙門(梵字二字)(儀海ヵ)
五月十七日夜戌尅於高野山蓮華谷誓願院書写了 求法沙門(梵字二字)(儀海ヵ)
七月九日於高野山金剛峯寺蓮華谷誓願院書写畢 此書聞名字年久雖然未得之今幸感得之至宿願処以如是云々 権律師義海卅四
七月九日於高野山金剛峯寺蓮華谷誓願院書写畢 此書聞名字年久雖然未得之今幸感得之至宿願処以如是云々 権律師義海卅四
正和三年(一三一四)
三月廿二日於常陸国真壁山宇成福寺以御筆本書写之畢 金剛資儀海 
九月十六日於武州北河口書写畢 金剛資儀海卅五
正和四年(一三一五)
正月二日於延福寺書写了 権律師儀海三十六
正月五日於延福寺書写畢 権律師儀海卅六 延慶三年(一三一〇)七月二十九日於武州由井横河慈根寺幣房午尅師主以御自筆御本書写畢 (梵字)卅一
正月十九日於延福寺書写了金剛資(梵字儀海)
正和五年(一三一六)
正月十四日於武州北河口延福寺書写了 三宝院末資(梵字二字)(儀海)三十七
文保二年(一三一八)
三月廿日奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印頼―御本書写畢 三宝院末資儀海
三月廿九日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写了 三宝院末資儀海卅九
文保二年(一三一八)
四月四日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写畢 権律師儀海三十九
四月九日於奥州小手保河俣宿坊書写畢 金剛資儀海
四月十六日於奥州陸国河俣宿坊書写畢 金剛資儀海卅九
四月廿三日奥州小手保河俣書写畢  金剛仏子儀海卅九
四月廿八日於奥州陸国小手保河俣宿坊書写畢  金剛仏子儀海
五月五日於奥州陸国小手保河俣書写畢  金剛資□□(儀海)
五月十三日於奥州河俣書写畢  金剛資□□(儀海)卅九
五月十六日於奥州小手保河俣令染筆畢 権律師儀海卅九
五月廿日於奥州小手保河俣書写畢 三宝院末資儀海
五月廿一日於奥州河俣書写畢 求菩提沙門儀海
五月廿二日於奥州小手保河俣酉尅令染筆畢 金剛資儀海
五月二十四日於奥州河俣書写畢 儀海三十九
五月廿五日於奥州小手保河俣令染筆畢 金剛資儀海三十九才
五月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼―遺跡以御本書写畢 権律師儀海卅九才 已上十八巻以御自筆本書写畢 儀海
十月四日於奥州小手河[  ] 儀海
文保三年(一三一九)
四月十一日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写了権律儀海
四月十一日於下野国小山金剛福寺賜主鑁海ノ御本書写畢 儀海
四月十二日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師
四月十二日於下州小山金剛福寺賜御自筆本書写了金剛資儀海四十
四月廿五日於奥州陸国小手保書写了是偏為高祖御遺命御手印縁起三巻修学稽古之隙閣他事令染筆畢 三宝院末資律師儀海満四〇
五月十日於[下]野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海 相承次第 一冊(奥書)
七月十四日於奥州陸国小手保河俣先師法印以御本書写畢 三宝院末資儀海四十
閏七月五日於奥州河俣先師頼―法印以御本書写
閏七月七日於奥州陸国小手保河俣先師頼瑜法印以御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)
閏七月六日於奥州小手保河俣以御本写畢 義(儀)海
閏七月九日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写了 金剛資儀海四十
閏七月十四日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御自筆御本書写畢 金剛資儀海四十
閏七月十七日於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)
閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢
八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 以書写功為生々世々大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
十一月廿三日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写畢 権律師儀海
十一月廿五日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写了畢 金剛資儀海四十 一交了
十一月廿六日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 金剛資儀海
十二月二日於紀州根来中性院以自筆御本書写畢金剛資儀海
十二月七日於紀州根来寺以中性院御本書写畢 金剛資儀海
十二月八日於紀州根来寺以中性院御自筆御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写了 求法沙門儀海
十二月十二日於紀州根来中性院々々々之御自筆之以御本書写畢願以書写之功為世々大師値遇之縁而已 権律師資儀海四十一
十二月十二日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
十二月十二日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資儀海四十一
十二月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 願以一部四巻書写劫開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
十二月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢右一部八巻以書写開自他恵開兼為当来得脱之縁矣南無大師偏照金剛 金剛資儀海四十 
十二月十七日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
十二月廿日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資元応元年(一三一九)十二月二十七日於紀伊国根来寺中性院以御本書写了 権律師儀海四十
元応元年(一三一九)
十二月卅日於紀伊国根来寺中性院以御本―書写畢願以一部四巻書写功開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十

四十歳から没年まで
元応元年(一三一九)
閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢
八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 以書写功為生々世々大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
十一月廿三日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写畢 権律師儀海
十一月廿五日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写了畢 金剛資儀海四十一交了
十一月廿六日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 金剛資儀海
十二月二日於紀州根来中性院以自筆御本書写畢金剛資儀海
十二月七日於紀州根来寺以中性院御本書写畢 金剛資儀海
十二月八日於紀州根来寺以中性院御自筆御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写了 求法沙門儀海
十二月十二日於紀州根来中性院々々々之御自筆之以御本書写畢願以書写之功為世々大師値遇之縁而已 権律師資儀海四十一
十二月十二日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
十二月十二日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資儀海四十一
十二月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 願以一部四巻書写劫開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
十二月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢右一部八巻以書写開自他恵開兼為当来得脱之縁矣南無大師偏照金剛 金剛資儀海四十 
十二月十七日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
十二月廿日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資
元応元年(一三一九)十二月二十七日於紀伊国根来寺中性院以御本書写了 権律師儀海四十
元応元年(一三一九)十二月卅日於紀伊国根来寺中性院以御本―書写畢願以一部四巻書写功開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
元応二年(一三二〇)正月三日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜書写畢 金剛仏資儀海四十一
正月五日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 後中性院房主頼淳御―云此書唯一人五房之主良殿兄也許之未許余人云々 三宝院末資儀海
正月八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼―書写畢 醍醐寺三宝院末資儀海四十一 一交了
正月十一日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十
正月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十一
正月十四日夜子尅於紀州根来寺中性院以御本頼瑜書写了以此書写功為当来得脱縁矣 金剛資儀海卌一
正月十八日於紀州根来寺以中性院之御自筆御本書写畢 金剛資儀海
正月十八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼瑜書写畢願以書写功当来大師値遇縁宜自他開恵殊矣 三宝院末資儀海四十一
正月廿二日於紀州根来中性院以御自覚(筆)頼―本書写畢 金剛資儀海四十一
正月廿五日夜子尅於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 願以書写功為生々大師値遇之縁兼祖師中性院并先師法印奉廻向御菩提惣開自他恵解共大覚位矣南無大師遍照金剛 権律師儀海四十一
正月廿八日於紀州根来中性院書写畢
正月晦日於紀州根来寺以中性院之御自筆之御本書写了金剛資儀海
正月晦日夜子尅於紀州根来寺中性院書写了 権律師儀海卅一
二月四日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢
二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
二月八日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢金剛資儀海四十一
二月十二日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)
二月十六日於紀州根来寺以中性院之御自筆本書写畢 金剛仏儀海
二月廿五日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 願以書写功必為当来大師値遇之縁而已 権律師儀海四十一
五月廿六日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 金剛資儀海四十一
六月三日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 儀海
七月二日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写畢 権律師儀海
七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
七月六日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写了 願以書写功為当来大師値遇縁而已 金剛資儀海四十一
七月八日於高野山金剛峯寺書写畢 金剛仏子儀海
八月廿四日於紀伊州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書写功徳為当来大師値遇之縁重為祖師御菩提廻向畢 金剛資儀海
八月廿四日於紀伊州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書
九月七日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本為仏法興行令書写畢 権律師儀海生年四十一
九月十二日於根来中性院以御自筆頼瑜御本子尅令染筆畢為是偏無上菩提興隆仏法也 願以書写生々値遇大師密教聴聞三宝院末資権律師儀海四十一
九月十六日於紀州根来寺中性院書写畢 権律師儀海四十一 御自筆以御本重交合畢
九月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼―御本書写畢 願以一部三巻書写功為当来大師値遇之縁兼開自他恵解畢 権律師儀海四十一
十月十七日於夜丑時紀州根来豊福寺中性院書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁而已 金剛資儀海卌一
十月二十七日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
十一月廿三日於紀州根来中性院以御自筆畢 権律師儀海
霜月五日夜於紀州豊福寺中性院丑尅除睡眠為仏法興隆書写畢 権律師儀海四十一才
霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 求法沙門儀海
霜月十五日於紀州豊福寺中性院丑時尅書写畢 権律師儀海四十一
霜月廿日於紀州根来寺豊福寺中性院書写畢 権律師儀海
元亨元年(一三二一)
十月三日於武州由井河村◆房書写畢 権律師儀海四十二才
九月廿七日於武州由井慈根寺権律師儀海四十二
十月三日於武州由井阿村弊房書写畢 権律師儀海四十二才
元享二年(一三二一)
四月十二日於奥州小手保河俣甘露寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
卯月十二日於奥州六陸国小手保河俣甘呂寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
五月一日於奥州小手保河俣坊以先師法印頼―御本書写畢 権律師儀海四十三
五月八日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海
閏五月十五日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海四十三
五月二十三日於奥州陸国小手保河俣甘呂寺先師法印頼瑜以御本書写畢権律師儀海四十三
六月十九日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 儀海 
八月七日於奥州小平保河俣書写畢 同十八令交合畢 金剛資儀海四十三
元亨三年(一三二二)
八月十八日於奥州小手保河俣宿坊以先師法印頼瑜御本書写畢 権律師儀海四十四
元亨四年(一三二四)
八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御坊書畢 権律師儀海四十五歳
八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御蔽坊書写畢 権律師儀海四十五歳
正中二年(一三二五)
七月三日於武州高幡不動堂蔽坊書写畢 為偏是旡上菩提更無二心而已 権律師儀海四十六
嘉暦二年(一三二七)
十月七日於武州多西郡高幡不動同虚空蔵院弊坊書写了 願以一部十巻書写之功生之世之為大師値遇縁而已 権律師儀海
九月廿日為興隆仏法書写畢 願以書写功為生之世之大師値遇之縁而已 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)
元徳元年(一三二九)
十二月三日於武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢 右此秘決者先師(梵字二字)(鑁海)上人最後対面之時奉伝授了 誠是依数年之懇功令盛況之権律師儀海 私云酉酉正教与欠受之 私云此抄作者主決之極位加持門之有作伏間根来寺方聖教仁毛哉有之明師ニ可問之可稔云云 右此書者越前金津惣持寺院家不出雖 為一代信州諏訪大坊日増法印似初仕数年之懇切テ雖稔書写畢 越中全山台金寺之住呂融儀不思議之感況之可稔云々
十二月三日武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢右此秘决者先師最後対面之尅奉伝授之畢或是依数年之懇切令感徳之畢 権律師儀海
元徳二年(一三三〇)
正月四日於高幡不動堂弊坊書写了 金剛資儀海五十一才
正慶二年(一三三三)
正月七日於武州多西郡由井横河慈根寺坊午尅染筆畢 金剛仏子儀海
正慶三年(一三三四)
七月廿三日於武州由井横河慈根寺幣坊賜師主御自筆本未尅書写了 儀海
観応二年(一三五一)
三月二十一日儀海没する(高幡山過去霊誌)
観応三年(一三五二)
歳次壬辰三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海 空無相理釼印之事 一巻 右於武州虚空蔵院道場授両部潅頂畢
観応三年(一三五二)
三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
文和二年(一三五三)
三月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
文和二年(一三五三)
癸巳五月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海 端裏「麗気 宥恵」(二所皇大神宮麗気秘密潅頂印信 一紙奥書)
十月十六日能信示之傳受阿闍梨法印大和尚位儀海
文和三年(一三五四)
四月十九日信慶示之傳受阿闍梨和上大和尚位能信
七月二十一日於武州高幡不動堂此口决相承了 金剛資宥恵伝授阿闍梨法印大和尚位儀 阿闍梨位宥恵 授印可(三宝院憲深方幸心流印信)

平成二十八年七月十五日(校正)

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2016年7月10日 (日)

『土屋備前守軍役人数書立に見る戦国』

  『土屋備前守軍役人數書立に見る戦国』
                                            清水太郎
   はじめに
  御北条氏の家臣団についての研究は、杉山博・下山冶久編『戦国遺文・御北条氏編一~六巻』及び下山冶久編『戦国遺文・御北条氏補遺遍』の完成によって容易になった。また、二〇〇六年九月二〇日に下山冶久編『御北条氏家臣団・人名辞典』の出版によって、尚一層前進した。すでに下山冶久氏は『八王子城主・北条氏照』を平成六年十二月十五日に出版されており、その精力的業績は多いに評価されている。地域史では後北条氏の遺臣について『多摩のあゆみ』第四十六号(昭和六十二年二月)が「特集・近世初期の多摩」で詳しく触れている。本稿は着到状「土屋備前守軍役人数書立」の書かれた背景とその時期、及び名を連ねた家臣についての詳細をできる限り明らかにして行きたい。
五日市街道の終点は東京からJR五日市駅を過ぎて、あきる野市五日市出張所の信号のある右手にある栗原呉服店の一角であろう、ここはかって五日市村の下土屋勘兵衛の屋敷であった(あきる野市五日市一番地)。この上隣が、今はりそな銀行になっているが、上土屋常七の屋敷跡である。雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻五八頁には、この土屋氏について次のように記されている。
 舊家 百姓勘平 先祖は甲州武田家の家臣土屋右衛門尉直村の三男にて、土屋越後守宗昌と號せしが、天正十七年當村へ來りて農民となれりと云う、家に古き鎗一筋、薙刀一振、及家系を所持せり、やりは直鎗にて穂長さ五寸八分、柄九尺許、薙刀は身の長さ一尺三寸五分、ものに會ひしとみえて丒三四ヶ所缺てあり、柄は五尺六寸、いずれも赤銅かなもの、鐏は鉄なり、皆無銘ものもにて、最古色にみえたり、
 杉山博・萩原龍夫編『新編武州古文書上』に〔旧五日市村名主勘平所蔵土屋氏〕の「一二八 土屋備前守軍役人數書立」がある。この古文書は、下山冶久著『八王子城主・北条氏照』に「三二〇 北条氏照着到書立写 諸州古文書一二」としてあり、下山氏の解説に次のようにある。
「大石惣四郎や土屋豊前守は氏照の家臣。氏照の軍勢の実状がよくわかる貴重な文書である。安積弥五郎以下名前の見える侍が寄親で、その上の人員から寄親一人分を除いた人員が寄子になる。合計一四人の寄親に七八人の寄子がついている。馬上侍は大石惣四朗と土屋備前守の二人。それにしてもこれだけ員数がいて、鉄砲が一挺とはいかにもすくない。天正初年か」。
 三二〇 北条氏照着到書立写 諸州古文書一二
   一丁弓

六人上下  一丁やり   安積弥五郎    
       一本さし物
       二人手明
  此外  安藤
  歩弓   栗原
      以上
         やり一本
五人上下  一本さし物  守留藤左衛門
       二人手明
   以上 
やり一本
 五人上下  一本さし物   倉林弾正
       二人手明
      以上
       一本やり
 三人上下  一本さし物   羽生源七郎
   以上
       一本やり
 三人上下  一本さし物   豊泉和泉
   以上
       1本やり
 三人上下  一本さし物   豊泉与一
   以上
       1本やり
 三人上下  一本さし物   池上平三
   以上
       二本やり
 六人上下  一本さし物   志村将監
       二人手明き
   以上
       1本やり
 五人上下  一本さし物   志村甚二郎
       二人手明き
   以上
       1本やり
 十一人上下 一本さし物   月齋

 八人手明
   以上
       1本やり
 六人上下  一本さし物   広瀬殿
       三人手明
   以上
       一本鑓
 六人上下  一本さし物   東三郎左衛門殿
       三人手明
   以上   
 十四上下  大石惣四郎
   此内
    騎馬    神保宮内
    鑓持    弐人
    差物持   二人
    手明    八人
   已上十四人
 十四人上下         土屋備前守
   此内
    騎馬    安藤彦二郎
    鐡砲    安田伝右衛門
    歩鑓    伊藤弾左衛門
          向風次右衛門
     一人ハ腹中
     煩高坂ニ差置申候此由由木ニ申断候
    四丁鑓 持□…□四人

  一 着到状の時代と背景

 着到状は武士が変事や合戦にあたり、はせ参じたことを上申する文書。大将または奉行の承認の文言と花押(証判)をもらって、後日恩賞請求の証拠とした。鎌倉後期から南北朝期に多く用いられた。本稿の着到状の上申者は土屋備前守某であり、奉行は由木である。由木氏には、天正五年十一月七日の由木奉之の北条氏照朱印状(網代文書)と天正七年六月六日の北条氏照朱印状(新井文書)の由木左衛門尉の二家があった。本稿の由木は天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した由木豊前守であろうと思われる。氏照の家臣団には「由井衆」がいるが、筆者はこの着到状はむしろ、「由木衆」のものであろうと思はれる。
北条氏康は元亀二年(一五七一)十月三日に没した、五十七年の生涯であった。武田信玄は天正元年(一五七三)信濃の駒場で没した。上杉謙信は天正六年(一五七八)三月十五日脳溢血で没した。そして、織田信長は天正十年(一五八二)六月二日未明に明智光秀によって本能寺で自刃させられた。このように元亀二年から天正十年にかけては戦国武将の交代期といえる。そして、豊臣秀吉、徳川家康によって戦国の世は終焉するのである。
 北条氏康の六男は景虎で、天文二十三年(一五五四)の生まれと伝えられている。幼名、西堂丸。永禄十二年(一五六九)末から元亀元年初めに、久野北条宗哲の婿養子になり、元服して、久野北条氏当主歴代の仮名の三郎を称した。次いで同年三月に越後上杉謙信の養子になって、越後に移り、謙信から前名を与えられて景虎を名乗った。天正六年(一五七八)三月の謙信死去により、義兄弟の景勝と家督をめぐって抗争したが、敗北、同七年三月二十四日に死去した。享年二十六歳、法名徳源院要山浄公とされる(花ヶ前盛明「越後長尾氏系図」『上杉景勝のすべて』)。
 永禄十一年(一五六八)十二月に武田信玄は北条・上杉・武田の三国同盟を破棄した。駿河侵攻である。山国の甲斐は海のある駿河を目指していた、今川氏真は北条に助けを求めるより方法がなかった。これより、駿河は武田信玄・徳川家康の狩場となる。最終的に氏真は北条氏を頼り小田原に亡命する。北条氏は元もと駿河の今川氏より西、京を目指すつもりはなかった。早雲の代から始まり、伊豆・相模・武蔵・関東へと北条氏綱・氏康が領土を広げていったのも、今川氏の代理として関東の静謐を図るという大義名分があったからである。氏綱の代に北条の名跡を称するのもそのあらわれである。
 信玄の駿河侵攻は北条氏の外交政策を大転換させた、謙信との同盟を図ることであった。氏康の三男氏照・四男氏邦は謙信に書状を送り、同盟の成立に向け動き出す。永禄十二年(一五六九)六月に成立を見る。越相同盟と称した。条件は①関東管領の譲渡、②領土割譲、③養子縁組にまとめられる。
関東管領の譲渡とは、北条氏のその地位を謙信に譲ることである。これは両氏間の身分関係にも変化を生じさせた。三月までは北条氏は謙信を「上杉弾正少弼殿」と宛名書きして、対等の大名として扱っているが、四月からは「山内殿」と宛名書きし、関東管領として目上の扱いに変化している。
領土割譲については、現状で北条領国となっている東上野・北武蔵が焦点であり、上野は上杉本国ということで謙信に割譲されることとなった。武蔵は基本的には北条氏の領国とされたが、かつて上杉氏の勢力下にあった藤田・秩父・成田・岩付・松山・深谷・羽生の各国衆領の帰属が問題となった。北条氏は基本的に割譲に応じるが、藤田・秩父領は氏邦の支配領域、岩付領は直接的支配領域となっていたように、現実的には難しかった。そのためそれは謙信の自力次第とされた。結局、これ以前から謙信に従っていた羽生領、この同盟を機に謙信に従属した深谷上杉憲盛の深谷領だけが、謙信方に帰属した。
養子縁組は、氏政の子が謙信の養子となってその名跡を継承する、というものである。六月の時点で、その養子には氏政の次男国増丸(のち太田源五郎)が予定されていたが、十月には氏政はあまりに幼少であることを理由に、難色を示している。結局、翌元亀元年(一五七〇)二月には、養子は氏政の末弟三郎に変更された。三郎は、三月五日に小田原城を出立、同十日に沼田城に到着し、翌日に謙信に従って越後に入り、同二十五日その本拠春日山城(上越市)で養子縁組を遂げて、謙信からその初名景虎を与えられ、上杉三郎景虎と名乗った。この養子縁組は、この同盟において実現された関東管領職や領土の譲渡を保証するものであった。そのため、後に同盟が破綻しても謙信は景虎を離縁しなかった。景虎が存在していれば、北条氏もそれを尊重せざるをえず、それらの契約内容が維持されたからである。後の越後御舘の乱による景虎の滅亡をうけてはじめて、上野支配権を主張するようになる(黒田基樹『戦国北条一族』)。
戦国を考察する時に特に注意することがあるように思う。男色(なんしょく)の問題である。信玄・謙信・信長は皆、男色で有名である。しかし、また女色も行っていた。謙信だけは例外であるらしい。北条氏綱の娘は足利晴氏の室となり、芳春院と呼ばれたが絶世の美女であった。古河公方を味方にするのが目的である。氏康の六男、三郎も美男であった。北条氏は男の欲望を巧みに使い分けたのである。氏照はこの叔母と弟のために尽力している。
筆者が謙信と三郎景虎の養子関係に拘泥するのは、両人が男色であったことだけではなく、本論の「土屋備前守軍役人数書立」の時期が、天正六年八月中旬、北条高広・景広親子は北条氏輝・氏邦らとともに関東勢四万を率いて景虎助勢のため厩橋より南魚沼郡上田城に達し、坂戸城の深沢利重・栗林政頼らを攻撃した(『前橋市史通史巻一』)。此のことに関係あると思われる。
『武州古文書上』には百姓勘平(土屋氏)が佐野宗綱より結城晴朝に送った書状の寫を持っている。そこに「…仍北安厩橋之地開渡之由…」とあり、全文は不明な点も多いが、日付は、九月廿四日 結城殿御報と記されている。
氏照が下野方面に人員や物資を送るのには所沢市にあつた滝の城を使ったのではなかろうか、清戸(清瀬市)には番所が置かれていた重要地点である。そして、下総方面にも近い。「土屋備前守軍役人数書立」の最後にある部分に「…一人ハ腹中煩高坂ニ差置申候此由由木ニ申断候…」とある。これより推測すると高坂(坂戸市高坂)は北に偏っている、下野・下総方面への移動ではなく、上野の厩橋方面への出動であつたと思われる。

二 天正期における北条氏照家臣団

【安積弥五郎】 本稿の着到状以外にその名はない。
安積氏はその出自を陸奥国安積郷とするが、各地に異流がある。「アサカ」氏は安積臣、大伴安積連、伊東流、がある。「アズミ」氏は播磨国宍栗郡安積保の下司公文職をもつ国御家人で、「嘉吉の乱」では赤松満祐の家臣として、安積監物行秀が知られている。

【守留藤左衛門】本稿の着到状以外にその名はない。
留守氏は頼朝の奥州征伐後、陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景を祖としている。二代家元以降、留守を称した。留守氏は多賀城国府周辺の「高用名」と呼ばれた地域の地頭で、初期の居城は、利府の加瀬あたりと考証され、代々塩釜神社の神主として強い支配力を有していた。十二代詮家の応永年間より、家督相続などで大崎・伊達氏の干渉を受けることが多くなり文明年間に伊達持宗の子郡宗が十四代を相続し、完全に伊達氏の勢力圏に入った。この一族か。
【倉林弾正】 徳川家康に仕えた倉林弾正の名がある。『寛政重修譜家譜』に次のようにある。
●友則(弾正の父)刑部大輔 北条氏輝に仕へ、天正十八年四月前田利家武蔵国松山の城をせむるの時、友則援兵となりてかの城に籠り、防戦して討死す。法名善慶。●昌知 四郎兵衛(弾正の兄) 小田原没落ののち、武蔵国八王子の眞學寺にあり。天正十八年九月めされて東照宮に勤仕し、のち尾張大納言義直卿に附属せらる。●則房 弾正 五郎左衛門 今の呈譜秀房に作る。小田原落城ののち、兄とともに八王子の眞學寺に寓居す。そののち相模国藤沢の遊行寺にをいて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、武蔵国都筑郡の内に於いて新墾田をあはせ、采地百六〇石餘及び月俸三口を賜ひ、後關原の役をよび大阪兩度の御陣に供奉し、其のち川越に住し、御鷹塒飼をつとめ、御代官をかぬ。寛永二年十一月十一日後朱印を下さる。三年かの地にをいて死す。年七十六.法名機珊。
倉林和泉守 『町田市史』五八七頁に〔…市内小山町の島崎兵吉家所蔵の『覚書』(宝暦七年正月)に弘冶元年正月に主君の倉林和泉守家次から「島崎三郎次吉」の名乗り下賜わされた同家の祖が…〕とある。

【羽生源七郎】 本稿の着到状以外にその名はない。
日の出町平井川流域には広く板碑が分布している。そして、中世には大久野七騎(和田・羽生・清水・小山・田中・野口・浜中)という武士団が存在した。同地の中羽生家の過去帳に次のような記載がある。
惠日院殿本寥陽心居士  平山兵部大輔景季
耕徳院天信道祐居士   羽生伊賀守 天正十七年八月廿日
義峯院正安全通居士   大膳事羽生彦右衛門 慶長八年正月廿七日
中羽生家には「創羽生大権現記」と記された板版があり、そこに、〔…中羽生伊賀父子北条氏尚公事相劦小田原領先地未幾北条氏羽生餘裔為農業凡九十年…」是時延宝八歳庚申天…〕と記されている。

【豊泉和泉】本稿の着到状以外にその名はない。
【豊泉与一】 本稿の着到状以外にその名はない。
北条氏照朱印状(和田文書)に、甲子五月廿三日(永禄七年)清戸三番衆、三田冶部少輔以下に「…豊泉十兵衛・同かけゆ・同隼人・同惣五郎・同半十郎・同惣二郎…」の人々がいる。氏照は青梅(青梅市)の辛垣城の三田綱秀を滅ぼして、旧臣の三田冶部少輔の引率する師岡采女佑秀光以下四〇人の侍衆を配下に加え、清戸番所詰めの守備隊として組織した。
『新編武蔵風土記稿』「巻之百六十、入間郡之五」の中神村、豊泉寺開基豊泉左近将監、天正三年九月十二日卒す。法名豊泉院名山大譽居士。小谷田村、舊家七兵衛。豊泉氏なり、先祖は小田原北条氏に仕え、後浪人となり、左近将監と云し由、何の頃より爰へ土著せしや、その所以は知らず、中神村豊泉寺を開基せし事は其村の條に辨せり。
【池上平三】 着到状以外にその名はないが、池上将監丞の一族である可能性がある。
○北条氏照の家臣に池上某がいる。天正五年(カ)七月五日北条氏照書状(金上文書)では会津黒川城(会津若松市)の城主芦名盛隆と北条氏照との外交交渉で使者に赴いた。天正十四年九月二十六日北条氏照判物写(佐野家蔵文書)では下野国鹿沼(鹿沼市)への加勢として氏照の家臣小野田源太左衛門尉と池上将監丞等を派遣し、軍律を守るように申し渡す。
○八王子城横山口(八王子市元八王子町二丁目通称石神坂)に池上新右衛門道善の屋敷があったと言われる。元禄二年には氏照の旧臣の子孫であろうと思われる、池上新右衛門が讃州高松家中にいる(『多摩文化』第十四号)。
慶長十三年(一六〇八)、徳川家康はその子頼房を水戸に封ずるにあたって、附家老として、元北条氏の家臣で勇名をはせた中山勘解由の子・信吉を選んだ。中山氏は戦国期、飯能市中山周辺の土豪であり、北条氏に仕えていた関係であろう、配下の者一七名を、北条の遺臣たちから選んだらしく、この中には青梅市域内から「清戸三番衆状」に名が出てくる、富岡あたりの久下兵庫助、厚沢の住人若林作兵衛、二俣尾居住の神田伊兵衛、師岡の住人で、後に吉野織部之助に協力して新町開拓を行った池上新左衛門らが含まれていたが、いずれもその後間もなく水戸家の仕官を辞し、帰村してしまった(滝沢博「帰農した地侍たち」『多摩のあゆみ』第四十六号)。

【志村将監】 あきる野市上代継の志村氏と八王子市元八王子町志村氏の二人の将監がいたと思われる(後述)。
【志村甚二郎】出自不明。志村将監とは兄弟か、その一族。
○八菅山大権現は戦国初期の永正二年(一五〇五)兵火の罹り焼失したので、天文十年(一五四一)に再興されたと思われる。当地の地頭は内藤康行、代官は志村昌瑞と見える。志村氏は遠山氏の被官であろうと思われ、後北条氏の家臣で江戸衆の武士にも志村氏がいる。
志村氏は武蔵の名族豊嶋氏の一族で、武蔵国豊島郡志村郷(東京都板橋区)を本拠とする鎌倉武士の出身で、戦国時代には早くから北条氏の家臣となっていた。天文十年十一月二日には、北条氏康から武蔵川越城(埼玉県川越市)での戦功によって志村弥四郎に感状が与えられた(『諸名将等感状集記』所収文書)。志村昌瑞はその一族であろうと推定される。享徳の乱の頃には、志村氏は扇谷上杉氏の配下に属しており、同じく扇谷家に仕えた内藤氏の被官になったものと思われる。
○東京都下の檜原村にも志村氏を名乗る武士がいるが、江戸志村氏の一族であるか否かは不明である(『城山町史』)。現本村の志村氏は数戸あるだけだが、前記御銅帳、文禄四年(一五九五)の所に志村大隅が記され、下川乗、清水章好家文書(天正元年~天正十年の年記が見える)にも馬場・志村仁左衛門が記されている。志村大隅は平山六人衆の一人と言われている人であろう(『檜原村史』)。
○あきる野市の志村将監 あきる野市上代継の志村行次宅には、慶長十年(一六〇五)一月二十日付の大久保長安署名の折紙がある。内容は志村将監殿老母が「御入候後、家にかかり候、むね(棟)役幷屋敷年貢我等方よりわきまへ指上候而、右分被申付間敷、其上田畑とも年貢さえ取被申候者、かかり役之儀一切可被致無用候」というものである。同家のは二種の系図が所蔵されており、その一つには「東武多摩郡阿伎留郷代継村居住 志村将監吉次 天正九乙巳二月廿日切腹 法名青透院殿功山道無居士」とあり、他の方は「東多麻郡阿伎留郷代継村居住 志村将監吉次 慶長十七年乙巳二月廿日切腹 法名切山道無居士 母号昔鑑栄秀大姉 同年七月二日死」と年次が違っている。志村家は武田家の旧臣であり、系図にある将監吉次の切腹と、所蔵の大久保長安署名の折紙がどのように関係あるのか、今のところ不明であるが、後日再検討を加え、改めてこの文書の全文と史料価値について紹介したいと思っている(村上直氏『多摩文化第二十一号』)。
○八王子市元八王子町の志村将監 〔『新編武蔵風土記稿「巻之百四 多摩郡之十六」』〕に「…百姓清左衛門、小名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云う、…」とある。この志村将監は慶長の中頃に八王子権現の再興に尽力している。同市下恩方町の山本康臣家所蔵の『三ッ鱗翁物語巻五』は志村景殷によって加筆さてたようであるが、文中に「…志村将監景光…」とあり、八王子城戦での活躍が詳しく記されている。この『三ッ鱗翁物語』の作者は不明であるが、この志村氏のように思われる。隣家の志村茂氏の家伝によれば、八王子城を定めた折に廿里山で兄弟が出会って現在地に来住したようである。
○あきる野市引田には、引田城があり、旧武田家臣・志村景元の居館跡と言われている。この志村景元は慶友社版『武蔵名勝図会』(植田孟縉著)四二九頁に次のようにある。
古額 山王社に掲ぐ、堅七寸八分。幅五寸五分。絵は猿が馬を牽く図を高彫せしものなり。裏銘も彫り付けたり。
古額の裏銘
武州多西郡引田村当領主日奉朝臣平山右衛門大夫也。此家中
令知行当所内、有山王権現古跡、中絶年久者也。忝信某得心
過去因現在果未来業、今歳天正十七己丑奉再興新殿一宇、次某
自男号角蔵者十七歳而刻之、奉寄進当社也。仍而如件
        甲州鶴郡鶴川組生 志村肥前守景元(花押)

 所願成就令満足      引田真正寺
 この志村肥前守景元は引田の正音寺を開基したとされ、正音寺は現在、無住で引田の真照寺の管理となっている。この正音寺の裏山「中平」に舘をかまえ、八王子城の落城の際に自刃した悲劇の人である。地元の言い伝えに「馬場坂で馬の訓練をし、乗馬姿の美しい殿様であった。」とある。この志村肥前守景元と八王子市元八王子町の志村将監景光とは同族と思われる。
 志村氏は『甲斐国志』等に「小笠原長清の孫、伴野太郎時直の後裔・右近允真武、信濃国佐久郡志村にありて志村氏を称す。大永年中当国に来たりて武田氏に仕う、其子に鷹山重右衛門栄貞・志村太郎右衛門貞盛・又右衛門貞時等あり」。この志村氏は千人頭の志村氏である。家紋は一文字、替紋五丁字。八王子市元八王子町の志村氏の家紋は三丁字である。
○千人頭の志村又左衛門貞盈は、天正三年(一五七五)五月長篠合戦の時山縣昌景の首を背旗に包んで必死に逃げ帰ったと伝えられる。天正十年三月武田家滅亡の後に千人頭河野但馬守通重と共に北条氏に仕えたと思われる。
 小田原市下堀地区に「穴部国府津線関連遺跡」がある。遺跡は小田原市の中央部、JR鴨宮駅の北方約一、七キロメートルに所在し、遺跡の南側には中世土豪の舘跡とされる「下堀方形居館」がある。ここは甲州武田氏の家臣であった志村氏が、武田氏滅亡後、小田原北条氏に下った際に下賜された土地であると伝えられている。
○武田信玄の四女於松は武田家滅亡の際、北条氏照の元に避難してきた。その時警護にあたって付いて来た家臣に志村大膳がいる。
【月齋】 月斎吟領(げっさいぎんりょう)
 武蔵国滝山城(八王子市)城主北条氏照の家臣。使者を務める。天正八年十月二日北条氏照朱印状写(佐野家蔵文書)では小野田源太左衛門尉に武田勝頼との戦いに出陣を命じ、先駆けを申し渡した。奉者は吟段とあり吟領の間違いか。年未詳初春(一月)七日月斎吟領書状写(寺院証文一・四二六一)では古河公方の奉行月輪院道久に新年の挨拶を述べ、五明(扇)と芳名(茶)を贈呈された礼に杉原(紙)を贈呈した。「月斎吟領(花押)」と署名。天正十八年正月十七日北条氏直書状(仙台市博物館所蔵伊達文書・三六一七)では奥州会津黒川城(福島・会津若松市)城主伊達正宗に北条方に味方して出陣の事を聞いて甲冑を贈呈し、月斎吟領を使者として派遣すると伝えた。以前から北条氏と伊達氏の交渉役は北条氏照の役であり、そのために月斎吟領を使者として派遣した。年未詳九月二十六日北条氏照朱印状写では相模国西郡早川(神・小田原市)海蔵寺に合力として白綿廿把を寄進した。奉者は月斎(吟領)。

【広瀬殿】 着到状以外にその名はない。
 武蔵国入間郡に広瀬荘あり、比呂世と註す。風土記傳に「今高麗郡の内に広瀬村ありしも、此處ならんには、後世郡界の変ずること知るべし」と。また神名式に入間郡広瀬神社が見え(上広瀬村)、法恩寺寶冶元年文書に入西郡春原荘広瀬郷、健治二年文書も同じ、又広瀬社天正十年銅佛銘には「高麗郡広瀬郷」とある。春原荘は入間川左岸の低地に立地しており、現在の狭山市上広瀬・下広瀬に比定される。
甲斐の豪族広瀬氏は八代小石沢筋郡広瀬邑より起る。清和源氏武田氏の族と云う。角田氏の舊記には「一族也」と述べる。広瀬郷左衛門尉景房・最も名あり。一騎當千の士と称せられる。甲陽軍監に初め板垣衆と。又家忠日記等に見える、但し左馬介に作るは非也。大阪役に広瀬左馬助戦死す、郷左の養子かと云う。恵林寺靑表紙日記に「山形三郎兵衛同心広瀬清八、同清次郎、藤次郎」等あり、此處にも広瀬の地あり(甲斐国志)。
巨摩郡の名族に小笠原氏の族あり、中巨摩郡の誠忠舊家録に「山縣昌景衆、広瀬主計輔景則の後胤、天正自後醫術を業と為す、藤田村広瀬周平和泉」とある。東山梨郡八幡邑の名族、又甲府の名族にあり(姓氏家系大辞典)。
○千人同心の広瀬氏 「千人同心由緒之書付 河野与五衛門組 元禄十二年卯十月」
「権現様御代より御奉公仕候 一 曾祖父 本国甲州 生国甲州 広瀬太郎左衛門 病死 一 祖父 本国甲州 生国武蔵 広瀬波右衛門 一 父 本国甲州 生国武蔵 広瀬市郎左衛門 病死 一 御切米高弐拾六俵 本国甲州 生国武蔵 広瀬源左衛門 当卯ニ四十三歳」。逸見敏刀著『多摩御陵の周囲』に次のようにある広瀬氏がこの千人同心の広瀬氏と思われる。
「…御霊明神の裏に広瀬助之亟と云う家がある。この家は八王子城攻めの時、金子曲輪に於いて壮烈な戦死をした、城方一方の勇将金子三郎左衛門尉家重の末だと云う。當時の古文書數通(広瀬家文書)を所持している。現在の姓広瀬は後千人隊の株を買った時以来のものだと云ふ。広瀬は郷八と云ひ、甲州の士広瀬郷右衛門が弟子であって、郷右衛門は高天神城責めのとき家康から賞讃の言葉を賜わった程の大剛の勇士であった。郷八の子孫は後断絶したと言ふから、之の株を買ったものであらう。…」。
【東三郎左衛門殿】 着到状以外にその名はない。
東氏(とうし)は中世の武家で、千葉氏の庶流。桓武平氏。古今伝授の家として有名。鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘(千葉県東庄町)に住み、東大社の神官(本来の東氏)より名前を譲り受け、東六郎大夫と称したのに始まる。子の重胤、孫の胤行は歌道に優れ、ともに鎌倉幕府三代将軍源実朝に重んじられた。室町時代中期の当主東常縁は古今伝授をうけ、歌人として有名である。東氏は戦国時代に入ると衰退し、永禄二年(一五五九)東常慶は一族(異説あり)の遠藤氏と対立し、遠藤盛数に攻められ滅亡した。
○郡上の東氏に、東益之(一三七六―一四四一)号素明。通称三郎。官途左衛門尉。東貞常の孫で東師氏の養嗣子。歌人として貴顕と交わる。その子、東氏数(????―一四七一)号素忻。通称左衛門・下総守。歌人。その子か、東元胤(????―????)号素通。通称三郎がいる。この一族が、東三郎左衛門殿と同族か。
【大石惣四郎】 もと松田惣四郎のち大石照基と名のる。信濃守を称す。
北条氏政・氏照の家臣。氏照の持城の下野国小山城(栃・小山市)の城将。大石綱周の弟信濃守の養子となり家督を相続。『異本小田原記』巻四に「大石源左衛門綱周の伯父大石遠江守は永禄十二年十月の三増合戦で武田信玄に捕らわれて甲斐国に連行された。弟信濃守の家督は松田筑前守の孫六郎左衛門(定勝ヵ)の弟が継いで大石惣四郎、次いで信濃守をしょうした」とある。氏照の偏諱をうけた側近家臣。天正五年正月足利義氏年頭申上衆書立(東京史料編纂所所蔵・埼玉県史資料編八、六七二頁)には古河公方足利義氏への年頭の挨拶に北条氏政より太刀と扇が贈られ代官として大石信濃守が挨拶に来たので太刀を答礼として贈る。同年四月二十六日北条氏照朱印状(矢島文書・一九〇五)では小山城(祇園城)の諸触口中に小甫方備前守は他国衆のために彼の家臣等の手作地については違乱の無い様にせよとした。奉者は大石信濃守。同年十月十九日北条氏照朱印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・一九五〇)では大橋播磨守に下野国都賀郡卒島郷(小山市)内で知行一〇〇〇疋(一〇貫文)を宛行う。同日北条氏照朱印状写(晃程文書・一九五一)では菅谷左衛門五郎に同郡友沼之郷(栃・野木町、小山市)内で知行一〇〇〇疋を宛行う。奉者は共に大石信濃守。天正六年十月二十六日北条氏照朱印状(青梅市郷土博物館所蔵並木文書・二〇二七)では三田谷(東・青梅市)の並木弥七郎に照基が同道して小山城へ向かった。天正八年二月十九日大石照基書状(小山市立博物館所蔵大橋・四七三一)では大橋播磨守に生井郷(小山市)を宛行う。天正十四年七月十八日北条家朱印状写(楓軒文書纂六〇・二九七二)では常陸国の佐竹義重が下野国都賀郡に侵攻し壬生(栃・壬生町)・鹿沼(栃・鹿沼市)方面に向かうため、対する北条氏は小山衆をこの方面に向かわせる事になり壬生へ水海衆の鉄砲・弓衆を五〇人加勢として送り、加勢衆に良い指揮官を付けて大石信濃守の注進次第に小山城に入る事とした。天正十六年十一月二十八日大石照基判物(小島文書・三三九三)では枝惣右衛門尉を小山領の鋳物師の司の任命し北条氏の御用を務めるように命じた。「大石信濃守(花押)」と署名。ただし、当文書は疑問点がある。年未詳五月二日大石照基(ヵ)黒印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・四〇九〇)では下野国寒河郡生江郷(小山市)の年貢を四〇貫文と定め大橋氏の諸役を免除する。月日行下に印文「国所」の黒印を捺印。『北条記』では永禄十二年正月に伊豆国三島(静・三島市)に出陣して武田勢と戦っている。また、照基は天正十八年六月二十三日八王子城(東・八王子市)で討死しておらず、松田惣四郎松庵と復姓し、結城秀康に二三〇〇石で召抱えられた(秀康卿給帳)。
○『大石宗虎屋敷とサルスベリ』(八王子市松木一四九一)
「ここは松木台と称し、永禄(一五五八~一五六九)の頃、大石信濃守宗虎が居館を構えていたと伝えられている。宗虎の養子である照基がここを利用したかは定かではないが、屋敷自体は定基が没した元亀二年(一五七一)から八王子落城の天正十八年(一五九〇)の間に廃されたと思われる。また滝山城にある信濃郭も信濃守すなわち宗虎、あるいは照基の屋敷があったと考えられる。宝鏡印塔の前のサルスベリ(百日紅)は、この松木台の屋敷が機能していた頃のものと思われ、樹齢四〇〇年、根もとの周囲三メートル余、樹高十五メートルと近在にもまれな巨木である」。この屋敷内に墓地があり、そこに、忘れられたような小さな墓石が建っている。他から移したものと言われるが、宗虎夫妻の法名を併刻してある。永林寺過去帳とは少し異なるが次のようである。
   蓮心院法性開華大居士(宗虎)
   法蓮院春応妙華大禅定尼(宗虎室)
 この墓石の左側面に「御法名天正七□□…」と微かに判読できる。これによれば、照基の養父宗虎はこの年次に没したと思われる。照基が信濃守を称するのが天正五年頃であり、家督を譲られたのはこの頃であろう。また、『新編武蔵風土記稿』多摩郡城野村(八王子市)譜願寺の条には開基大石信濃守宗虎の墓があると記し「五輪塔の石塔なり、宗虎は滝山城の城主大石源左衛門定久の嫡子にて初は内記と称せり、近郷由木に居館を構ふ、元亀二年六月八日に没せり」とあり、もしくは定基と同人物か。

【土屋備前守】 着到状以外にその名はないが、あきる野市横沢の大悲願寺過去帳によれば、八王子城で討死の人々の名前に「土屋備前」となっている。その記載順序が、「中山勘解由、狩野一庵、近藤出羽、土屋備前……」となっていることから、身分が高かったと推測できる。武田家の土屋氏と関係深い人物と思われる。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第七巻二三四頁に、安立郡上青木村の名族として「…宗信寺…寛永六年村民土屋冶郎左衛門が父豊前守追福のため今の地に移し、本寺十九世の僧を請じて中興開基せり、則父豊前守が法諡及び己が逆修の法號を取て、長陽山宗信寺と號すと云、かの豊前守は甲斐國武田氏に仕え、同國にて卒せりと云のみにて、其傳詳ならず、…」とある。
○北条氏照ヵ朱印状写(土屋和夫氏所蔵文書)に「此度才原、敵打捕候、神妙ニ被恩召候、仍俵子被下候、向後弥軽身命於走廻者、御恩賞仁望可被与旨、被仰出者、也、仍如件、
(天正八年)辰(印文未詳朱印)六月八日 土屋五郎左衛門」とある。
〔解説〕天正八年五月十五日、北条氏照の軍勢と甲斐の武田勝頼の軍勢が西原峠(東京都桧原村)で合戦に及んだ。その時、氏照配下の土屋五郎左衛門が戦功をたてた。そこで氏照が感状を与えたもの。西原を才原と書いている(下山冶久著『八王子城主。北条氏照』)。
また、土屋和夫家には、天正八年(一五八〇)卯月十九日柏木野の坂本四郎右衛門繁直と共に、小河内に攻め入り、才藤六を打取ったときに、戦場で平山氏重より賜わった直筆の感状がある。そこに「…土屋内蔵助との」とある。この人物は土屋五郎左衛門であろう。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻五八頁に次のようにある土屋氏。
「…舊家 百姓勘平 先祖は甲州武田家の家臣土屋右衛門尉直村の三男にて、土屋越後守宗昌と號せしが、天正十七年に當村(あきる野市五日市)に来たりて農民となれりと云う、…」。土屋右衛門尉直村は土屋右衛門昌次と同一人物であるらしい。土屋右衛門尉昌次は(平八郎・右衛門尉・法名道官)武田信玄家臣。侍大将。金丸虎義の二男。元亀二年(一五七一)、三河賀茂郡の遠征、同三年、三方ヶ原の戦で戦功をあげる。天正三年(一五七五)長篠の戦で戦死した。その子、土屋越後守宗昌が北条氏照に仕えていた土屋備前守の元に来たのである。北条氏が滅亡する天正十八年八月の直前に五日市村(あきる野市五日市町)に来住しているのは、土屋豊前守と同族の縁を頼っての事であろう。武田家が滅亡したのは、天正十年三月であるから、その間の空白がある、何処でどうしていたのであろうか。後に、徳川家に仕ええた土屋氏も同様であるらしい。北条氏家に仕えた土屋氏、今川家に仕えた土屋氏、武田家に仕えた土屋氏がある。徳川家に仕えた土屋氏は『寛政重修諸家譜』にその系譜がある。
○武田家滅亡に際し、上野国(群馬)まで逃げた者がいる。武田二十四将の一人小幡虎昌・昌盛の本貫地である児玉郷に逃れ、帰農したと言う土屋源左衛門、勝頼十六将の一人で軍用金をもって土谷沢(群馬県下仁田)に落ち延びた土屋山城守高久。また、信州の伊那には土屋惣蔵昌恒の子である宗右衛門が瑞光禅院に落ちて来たという、その外、伊豆の下田に土屋外記、勝長、玄蕃の三人が落ち延び隠れ住んだという。
○土屋氏は桓武平氏中村氏族。相模国大住郡土屋村より起こる。中村荘司宗平の子宗遠が土屋弥三郎と称したのに始まるとされている。豊前守氏遠の時、武田氏に仕え家臣となった。それとは別の土屋氏がある。足利氏の一族一色氏満範の弟範貞を祖とする家で、範貞の曾孫一色藤次が甲斐に下り、武田氏の支流金丸氏の家名を継いだ。戦国時代に、金丸虎義の子が土屋氏の家名を継いで、土屋氏となったものである。
○武田家には土屋備前守がいる。岡部忠兵衛晴綱を以て直村名蹟とした土屋備前守である。この人物は土屋右衛門尉昌次の養父であるが、それらの経緯は少し判り難い。長篠の戦いで戦死した。

【由木】 着到状に「由木」とあるが、天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した、由木豊前守(道景禅定門)であると思われる。由木主水佑(西竿禅定門)も共に討死しているが、主水佑には、子の西蔵とその姉(妙野禅尼)がいる。主水佑は由木備前守の子か、兄弟であると思われる(大悲願寺過去帳)。天正五年十一月七日北条氏照朱印状(網代友甫氏所蔵文書・一九五六)では武蔵国網代郷(東・あきる野市)の山作の棟別銭を免除した。奉者は由木某。年月未詳二十日北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書・三九二一)では大石四郎右衛門尉・大石左近丞に加勢衆として鉄砲一〇挺を七人の衆から出させ、その一人に「由木」とある。
○由木左衛門尉景盛 興真の嫡男。武蔵国滝山城(東・八王子市)北条氏照の家臣。奉者を務める。天正六年三月十七日由木景盛奉納状写(昆陽漫録四・四七二六)では紀伊国高野山(和・高野町)龍光院の内の宗忍房に両親の菩提料として金二両と宗国の刀を納入した。「北条陸奥守平氏照内、由木左衛門尉景盛」とある。天正七年六月六日北条氏照朱印状(新井巳代治氏所蔵文書・二〇八〇)では武蔵国柏原(埼・狭山市)の鍛冶職の荒井新左衛門等に鑓の穂先を納入させた。奉者は由木左衛門尉景盛。東京都あきる野市の大悲願寺の過去帳には景盛の法名は西安信士、慶長十七年十月二十一日越前国で切腹し嫡男源左衛門も切腹した。この時、両名の妻達も殉じた(越前騒動)。
○由木氏は八王子市上柚木・下柚木・南大沢辺を拠点に鎌倉時代から戦国時代までを生きた武士。源姓。中興系図に「由木 源、本国武蔵由木、左衛門尉利重・之を称す」とある。○由木利重の子である存応(観知国師)は増上寺が徳川家康の菩提寺となったときの僧。家康に最初に仕えた僧の一人である。後に、金地院崇伝・南光坊天海がいる。
             
  おわりに
 本稿は筆者の平成十四年二月「天正期における氏照家臣団と志村氏」を全面改稿したものである。当時に比べ、筆者の研究も少しずつ進んでいるが、土屋備前守については不明な所が多く、今後、尚一層の努力を期したい。着到状の氏照家臣達の生きた戦国の世がどの様であったか、今後の研究課題は尽きない。

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『忠直暴走』

     『忠直暴走』
                                                        清水太郎
  はじめに
 慶長十七年(一六一二)十月十九日、北庄藩越前松平家第二代藩主松平忠直は前日の久世但馬守・半兵衛親子の討滅に続いて「弓木左衛門入道齋安といへるも、但馬が党人なりければ、これをも誅せよ」と藩兵を繰り出した。徳川実記には次のように記されている。
 台徳院殿御實記巻二十 慶長十七年十一月―十二月
「……討手の者ども多勢塀を乗越攻いれば。但馬は其ひまに女子子兒をばみな落し。其身主従百餘人討手とたゝかひ。家に火をかけことごとく討死す。本多を但馬がもとに使せられしも。但馬がもとにて本多かならず討れんとの謀なりしとぞ。其翌日弓木左衛門入道齋安といへるも。但馬が黨人なりければ。これをも誅せよと討手をさしむくる。こゝにも家人等よく防ぎ。寄手三十餘人を討取て。主従のこらず討死す。上田主水も自殺し。其家人等も寄手多く討取て。其身もみな討死せり。……」
 このとき藩内は戦乱状態に陥り、死者は三百余人にも及んだと言われた。世に言う「越前騒動」である。この弓木左衛門入道齋安こそが、北条陸奥守氏照に仕え、北条氏滅亡の後に徳川家康の二男結城秀康に仕官し、二千石を賜わり、その出頭人となった弓木左衛門尉景盛であった。それは八王子市上・下柚木附近を拠点に中世を生き抜いてきた「土豪」由木氏の最後であった。

  一 越前騒動の顛末
 北庄藩越前松平家第二代松平忠直は、父秀康の病死に伴って慶長十二年(一六〇七)十三歳にして藩主に就任した。秀康は全国から名ある武人を召し抱えたが、幼年の忠直には、家来を充分に統率することができなかった。とくに慶長十六年(一六一一)、久世但馬守の所領する村の娘が同じ村の百姓と再縁(岡部自休入道という町奉行の所領である石森村の百姓と結婚していたが、石森村の百姓が佐渡へ行って三年間を過ぎても帰ってこないため、ご定法に基づいて他に嫁した)した後、石森村の百姓が佐渡から帰ってきて、今の亭主を殺してしまった。自領の百姓を殺されて立腹した久世は、家来に佐渡がえりの百姓を暗殺させた。この私粉を発火点として、藩内は岡部方(岡部自休入道・広沢兵庫・今村掃部助・中川出雲守・谷伯耆守・清水丹後守・林伊賀守)と久世方(久世但馬守・竹島周防守・牧野主殿・本多伊豆守・由木西庵・上田隼人)の二派に分ける抗争に発展した。今村掃部助(岡部方)の讒言を信じた松平忠直は、慶長十六年十一月藩兵を繰り出して久世但馬守・半兵衛一族を討滅したが、合戦同様の争乱は幕府にも聞こえた。同十七年十一月、幕府は本多伊豆守・竹島周防守(以上久世方)、今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守(以上岡部方)の五名を召喚して、本多伊豆守・今村掃部助の両名が家康・秀忠の面前で対決させられ、裁断を仰ぐこととなり、本多佐渡守正信が尋問役になって、今村掃部助・本多伊豆守を尋問した。結果は、久世但馬守をひいきにした本多伊豆守・竹島周防・牧野主殿の三人は無罪となり、岡部自休にくみした連中(今村・清水・林・中川・広沢)は全部有罪とされた。今村掃部助らが家中の紛争をとりしずめようともせず、自らの利益のために火の手をあおり立て、久世但馬守を成敗した上に本多伊豆守を窮地におとしいれて殺そうとした陰謀を家康(家康の二男秀康が久世但馬守を誇っていた)が起こったことは容易に想像できる。本多伊豆守の派を勝ちとしたのは、伊豆守が自分の大忠臣であった本多作左衛門の養子で、骨髄からの徳川党であるためとも思われる。こんなわけだから、家康の下した判決は善悪を証明するものとはいえないようである。この騒動は、別名「久世騒動」ともよばれている(「奥山芳広」)。
 忠直の逸話(忠直年譜)
この年(慶長十七年)老臣争論の事について裁断があった。はじめは家老久世但馬守の知行地の民、某(甲)が、故あって町奉行岡部自休の知行地の民某(乙)を暗殺した事が発端であった。そののち、この事件がやっと表沙汰になったとき、この乙の親族が知行主の岡部自休に訴えた。自休はこの事を久世但馬に伝えて犯人の引き渡しを求めたが、但馬は本多冨正・竹島周防守などと協議した結果、犯人を匿い、事件を握りつぶしてしまった。自休は今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守らと相談し、中川出雲守から忠直公のこの一件を訴えたが、本多冨正と竹島周防はこのことを忠直に上申しなかった。自休は大いに怒り、「今奸計のために私が訴えても(忠直公の)お耳に入らない。私はこの事を関東に訴え、また家老共の悪を暴いてこの恨みをはらす」と語って直ちに江戸に向かって発足した。牧野主殿助も加勢として従った。忠直公はこの事を耳にし、人を遣わして両人を留め、「このような小事で関東の裁判を仰ぐには及ばない。直ちに戻って但馬と対決すれば、非理は明らかになるだろう。」と論した。両人はこれを受け入れてそうならば何を求めるであろうか、と帰還した。牧野はすぐに高野山に登って悌髪して入道した。忠直公は既に但馬に対して、速やかに対決するようにと命ぜられていたが、但馬は敢えて命に従わず、そのため誅伐をうける事となった。今村・清水・林らはかねてより本多冨正と仲が悪く、この時に乗じて久世と本多が並んで没落することを望んだので、忠直公に対して「今、久世を征伐するのは本多に勝るものはおりますでしょうか。この度の討手は伊豆(冨昌)にお命じになさりませ」と申し上げた。忠直公はすぐに冨昌を召したが、冨昌は危険を感じて府中城を離れなかった。冨昌は人質を賜ることを望み、人質が渡された後に初めて召しだしに応じて北庄城に参上し、十月十八日、命をうけて久世邸に行き、従者を門の外に待機させて但馬と会談した。会談は終わり冨昌が帰ろうとするとき、久世家臣の木村八右衛門が冨昌を殺害しょうとした。但馬はこれをとどめ、「私の最後は今日目前に迫っておる。私の死後、私の存念を語ることができるのはただこの人を頼るのみである。決して手を動かしてはならぬ。」と固く制した。そのため冨昌はわずかのところで免れて門外に出、備え置いた家臣を進めて久世の屋敷に攻め囲んだ。久世方の婦女や老人・子供は前夜全て脱出していたので、精鋭の家臣百五十二人が力を尽くして防戦した。寄手は先を争って攻めたが、屋敷を陥れることはできなかった。翌日になり、但馬は自ら火を放ち、その中に自害して果てた。久世但馬の家臣は討死、あるいは自害して一人も生き残るものはなかった。また、寄手の討死は二百七人出たということである。十九日、忠直公は青木新兵衛入道芳齋・永井善左衛門安盛を使者に立てて弓木左衛門入道齋安と上田隼人に死を賜わった。二人は自害し、家臣は皆戦って討死するものがすこぶる多かった。竹島周防は久世党の頭目であったので、刀を取り上げて北庄城の櫓の中に監禁した。ここに至ってこの越前国内の動乱が関東に聞こえたため、閏十月十八日、書状を遣わして本多伊豆守・竹島周防守を召しだした。今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守は本多冨昌が勢いを得てますます権勢を増すのを嫌い、本多らに召しだしの書状が来たのも知らずに三人で大御所(家康)に訴えるべしと、駿府に至った。この時、家康公は猟りで江戸に入ると聞き、江戸に行き武蔵国忍城下で訴状を家康公に提出した。そのとき、既に本多・竹島も召し出しに応じて忍城下に参上していた。たまたま土井利勝が将軍秀忠公の使者として忍城に来ていたので、家康公は利勝に命じて越前諸士の訴えを聞き届けさせた。利勝は今村掃部などの旅館に来て本多などを呼びだし、自らは中央に座して両党を左右に列座させ、訴えの内容を詳しく聞き出して逐一書面に記録し、夜半になってやっと利勝は忍城内に帰ってこれを報告した。家康公は二三行ばかりご覧になって、「この事は江戸で将軍と共に聞こう」とその書面を再び利勝に戻した。十一月二十七日、江戸城西の丸において、家康公・秀忠公は諸士の訴えをお聞き遊ばされた。本多冨昌は「岡部自休が訴える内容としては、私はもとより自休側にその理があると知っていましたが、久世但馬は武名の高い宿老、今農民の訴えにより処罰する事を見るに忍びませんでした。そのため久世の側に立って自休の訴えを聞き入れませんでした。」と述べた。竹島周防に対しては、なぜ先の主人(秀康)の恩を忘れて、幼い主君を軽蔑する但馬に組したことはどのような考えがあってのことか、という質問が発せられた。周防は「私はいままで但馬と親類に縁もなく、交際もありませんでした。ただ、考えると先君(秀康)が越前にお入りになったはじめに、秀康公は『私は国を得て喜んだことが二つある。一つは北陸の要地に拠ることになったことと、二つは有名な士である久世但馬を家臣に迎えることが出来たことである。』と仰って、但馬が佐々成政に仕えて功名が特に多かったことを感心されて他の家臣に比べて厚遇なさいました。先君がこのように愛した人物であったため、私も特に尊敬する心を持っておりました。そのため理非を論ぜず但馬に与して自休の訴えを拒んだことは先君の恩をお慕いする余りに起こったことでございますのでこのために罪を得て重罪になるとも全く悔いることはありません。」と述べた。
その他、諸士の訴えた内容をつぶさには載せないが、私(筆者)が事情を勘案して考えると、久世・本多が権勢を増し、他の同輩を軽蔑する等のことがらを挙げて嫉妬の心から出たことであるので、家康・秀忠両公の考えを動かす者はなかったようである。翌二十八日、今村掃部助・林伊賀守・清水丹後守を処罰し、丹後は仙台伊達正宗へ、伊賀は上田真田信之へ、掃部は岩城鳥居忠政へお預けと決まった。本多伊豆守は今後益々忠誠を誓って国務を指揮し、竹島周防守は今まで通り政事の合議に参加すべき旨を命じられ、各々越前に帰国した。周防は途中駿河鞠子の宿で自殺した。これは以前、城内の牢に入れられて、江戸に行くときも檻のついた車に乗せられたことを恥じ、再び人に対面することが出来ない、との考えからであるという。
 旧記に記すには、今村以下の罪を断ぜられてのち、大御所は本多伊豆を召しだして直に厳しく譴責なさった。伊豆はこのことを秘して人に告げなかった。そのために他の人はこのことを知らなかった。
慶長十九年から翌年元和元年(一六一五)の大阪冬の陣・夏の陣に忠直は総数一五〇〇〇余りの兵を率いてこれに参戦した。ことに夏の陣では真田幸村を討ち取った。しかし、両陣の恩賞への不満から乱心したと言われ、元和九年(一六二三)に豊後に配流された。

 結城家法度は下総結城の領主結城氏の法典である。弘治二年(一五五六)結城政勝(秀康の養父晴朝の叔父)が制定した。その前文と第三条にはすでに越前騒動の根源があるように思える。
(前文)
 そなたたちも御存知のように、(我が身は)老年である上に〔当家にとっての重大事が〕五年にも及び、一日として心の休まることがない。人並の遊山や宴会といった気晴らしさえ好まない性格なので、ましてめんどうな訴訟の裁決などは、もっと〔身にこたえる。〕(こうしたことで)不養生をしていては、命が縮んでしまうものである。その上、当家の〔重臣は、私の裁決について不満な〕時は、道理にあうのあわないのと陰でささやいている。〔ところが一方では、〕あるいは自分の身にかかわること(であるためか)か、親類縁者の訴訟となると、白を黒と言いくるめる。親類縁者または指南そのほか頼もしく思われようとするのか、実際には死ぬ気もないのに目をむいて、刀を抜く様子を見せて、無理を通そうとする。同僚もそれほど多くない中で、(このようなそれに)似つかわしくないさしでがましい行為は、理由があるにしても頭の痛くなることである。このような状態であるので、私個人として、法律を決めた。そなたたちもそのように心得られよ。この新法は、〔代々の当主が〕行ってきた政治、また私が前々より行ってきた裁定を〔まとめたものである。〕今後この法律に随わず、勝手にものを言うような者〔があってはならぬ〕。(そのようなことは、)当家に不忠をはたらき、〔全体の秩序を〕破壊し、(結城氏支配の)重要拠点を奪おうとする行動であろうか。この法律にそむかれた方には、誰であろうともかまわず、軍勢を派遣し、誅伐を加えることにする。(今は)平穏を保っている時(なので)、そなたたちの心得のために条目として明文化したのである。後世に至るまで、この法律に従うべきである。
 第三条 ちょっとした喧嘩口論など、どんなことでも、親類縁者を説得して仲間に引き入れ、一ヵ所に集まって徒党を組んだりする者どもは、どちらに理があるにせよ、まず徒党を組んだ方を罰することとする。心得られよ(徒党を組むことの禁止について)。
○越前騒動における由木左衛門景盛に関係する越藩の資料は次のものである。
 『国事叢記 一』
   武州由木左衛門源利重男
   由木西菴武州産。始、左衛門二千石。慶長十七壬子年十月廿一日御成敗。学翁道徹。
   墓 淨光院在り。
『續片聾記 二』
  御成敗 出頭人  同二千石    由木西安
  御成敗 御祐筆  同六百石    上田隼人
『越藩史略 巻之三』
 ○二十一日攻めて由木西安、上田隼人を滅ぼす(磐城曰、藩翰譜云、二十日弓木左衛門はらきつて死す、寄手うたるるもの三十余人、上田隼人、竹島周防守自害して一族郎党を助く)由木西安は武蔵の人、始は左衛門、秩二千石、上田隼人は遠江の人、仕えて祐筆となる、秩六百石、但馬の親戚なり。
 『結城秀康給帳』
   由木源左衛門 三百石 伏見御共番衆・(大小姓)生国・本国 武蔵
   由木左衛門  二千石 伏見御共番衆・(大小姓御詰衆)・生国・本国 武蔵
 「忠直年譜」=「西厳公年譜」(逸話集)―久世騒動(その一)
 *台徳院殿御實記巻二十(徳川実記)
 *『江戸幕府役職集成』によれば二千石の軍役は次のようである。
  侍八人、立弓一人、鉄砲二人、槍持五人、手明一人、甲冑持二人、手替一人、長刀一人、草取一人、挟箱持二人、手替一人、馬の口取四人、沓箱持二人、雨具持一人、押足軽二人、小荷駄四人の計三十八人
  二 大悲願寺過去帳について
 あきる野市横沢にある金色山吉祥院大悲願寺は、かつて末寺三十二ヵ寺を有した古刹である。建久六年(一一九五)源頼朝の命により、平山季重が建立したといわれている。この寺の過去帳は『福生市史資編・中世寺社』の中に公開されている(四五九頁以下)。戦国期の当地域の貴重な資料でもある。その四七七頁に本稿執筆のきっかけとなった次のような記載がある。
 西安信士  同壬子十月廿一日俗名弓木左衛門 北条陸奥守家中也
       俗名景盛行年七十歳  於越前国切腹ス
 西傾信士  同壬子同日   俗名弓木源左衛門云弓木左衛門子息
       也切腹ス
 妙法信女         同壬子同日   弓木左衛門妻
 妙珠信女         同壬子同日   弓木源左衛門妻
(同壬子は慶長十七年)
 この過去帳には由木一族の霊名が各所に記されている。それはこの寺の住持であった海譽法印が多摩郡由木郷の住人由木豊前守の子で、増上寺観智国師とは伯姪の間柄という関係であったからである。
*大悲願寺過去帳の一部を抜粋して次に記す。
 高野山宝生院「宥快」法印 応永廿三年丙申七月十七日報命七十二而化寂
  『小田原北条ノ元祖』
 伊勢新九郎氏茂入道早雲 永正十六年己卯八月十五日寂滅
  『早雲殿天岳瑞公大居士』
 存孝禅定門 俗名由木豊前守 天文九庚子年 増上寺十二世源誉上人実父
 見仏清信尼 天文廿二年癸丑三月十五日 由木隼人興真ノ亡妻左衛門景盛之     母 武州府中高橋氏之女也
 栄仏禅定門 俗名由木加賀守 元亀三壬申 由木隼人興真之実父
 当国府中花蔵院ニ葬之
 法性院機山信玄禅門 天正元癸酉四月十二日 武田信玄ハ参州野田村ノ合戦ニ中鉄砲ニ帰リ陳田口村ノ福禅寺ニ死ス
 妙光禅定尼 天正二甲戌三月十七日 由木隼人介興真ノ母ヲキサ子「実全」律師天台宗府中安養寺住 天正四丙子七月七日 当寺住海誉上人俗性之舎兄
 妙鏡信尼 天正五丁丑六月七日 当寺住海誉上人妹也於武州府中逝去也
  『墓所在当国府中花蔵院』
 奥真信士 俗名由木隼人行年七十三歳 天正六戌寅二月廿五日 当寺住海誉之母方ノ祖
  ジゴヂノシロッキハシム         父也歌道之達者ナリキ
越後国上杉輝虎入道長尾ノ謙信寿四十九死 天正六戌寅三月十三日逝去 上杉三良景 今 本名 虎ノ養父也
 『神護地城築始』当国於油井領神護地山ニ三月比ヨリ新城築始ム横山領ノ古城ヲ移サントスル沙汰ナリ
 妙香信尼 天正七己卯 海誉祖父方西蔵ノ姉
 玉清大姉 於金色山墓所立宝鏡印石塔 天正八庚辰四月四日 近藤出羽守(介)姉
 俗名由木 江戸増上寺源誉上人 『□□信□      天正九辛巳五月朔日       先祖ノ父
「道竿」信士 俗名由木加賀守 天正十壬午九月六日 府中之由木左衛門ノ亡父
妙珍信女 由木隼人ノムスメ 天正十一癸未正月十九日 高橋甚三郎女房
妙心信女 由木加賀守ノ妻 天正十三乙酉亡日未詳
妙菊信女 由木左衛門旧妻 天正十三乙酉亡日未詳
妙正信女 天正十五丁亥八月十七日 府中ノ高橋新十郎ノ母也
妙空信女 来由木隼人ムスメ 天正十六戌子八月十三日 鹿島田与七郎母公
性金庵主 俗名平子左近将監 天正十六戌子八月十七日 海誉上人父方ノ祖父(ヂイ) 
秀吉将軍関東下向 天正十八庚寅三月朔日発足之由弐拾五万騎上杉越後守宰相中将景勝羽柴筑前守前田利家両人ハ其勢三万余騎にて二月十六日に本国を打立て木曾路より下向して関東の諸城せむる風聞承を十月ノ日ニ松枝城候由
妙秀禅定尼 由木豊前妻興真娘 天正十八庚寅三月十七日寂『大悲願寺住僧』海誉母公
大将軍秀吉公三月廿八日ニ伊豆国三島宿江御着陣廿日より箱根之山中城をせめ給城主松田兵衛胎太夫切腹 四月朔日にハ徳川家康公先陳にて箱根山を打越て半腹畑の宿の上下に陣取同二日ニ小田原之城を取巻ときの声あげて攻始め五月中旬比堀際迄攻寄候由
村山領奈良橋岸入道平吉家ハ庚寅六月朔日ニ拝島領ニテ討死
越後守宰相中将景勝 八王子城攻給節当山江従大将 羽柴筑前守利家殿 禁制状被下之候早
              奉行木村常陸介殿
蓮照禅定門 俗名高尾備前 天正十八庚寅六月二十三日ニ手ヲイ廿八日ニ死 高尾助六 父草花村ニ住ス
道景禅定門 俗名由木豊前守 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死『大悲願寺住僧』海誉ヵ亡父
西竿禅定門 俗名由木主水祐 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 西蔵実父
道意禅定門 俗名高橋孫三郎 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死
淨心禅定門 俗名三内中務 同庚寅六月廿三日於八王子城討死
清照禅定門 俗名飯田新右衛門 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 伊奈村住人
憲照信士 俗名高尾弥八郎 同庚寅六月廿三日於八王子城討死
道円信士 俗名高尾弥九郎 同年同日於慈根寺城討死 高尾弥八郎ノ舎弟也
○中山勘解由○狩野一庵『実名宗円』○近藤出羽○皆同日切腹又土屋備前嶋村岩見同刑部森播磨貴志五良同与市妙善妙珍道源大悦左京知了西蔵佐渡源祐吉定宗阿蓮阿宗阿五十嵐佐渡浄金妙精高森但馬能登右京等五百人余
青霄院殿透岳宗関大居士 俗名北条陸奥守平氏輝云氏政ノ舎弟也 
庚寅七月十一日 於相州小田原城切腹八王子慈根寺ノ城主ナリ
慈雲院殿前左京北勝岩傑公大居士 俗名北条氏政 庚寅七月十一日庚寅七月十一日於相州小田原同切腹氏輝ノ舎兄小田原ノ城主
道音居士俗名大森宮内 梅屋道右俗名小暮将監 普斉浄金俗名畠中丹波 性金居士俗名中島豊前 道照居士俗名高尾近 江草花村住人 徳改居士俗名水野豊後 慶俊信士俗名長野佐渡 道源信士俗名高森弥三 高尾雪斉『高尾村平山氏』 柴田日向 鹿島田隼人 川口歓喜入道 土屋備前 若森藤佐 同丹後 小机藤太 道雄居士俗名三内蔵人 道金居士俗名馬場美濃太郎本ハ当国府中ノ人居住伊奈村移住ス上川口村歓喜坊ト孫左衛門トノ父ナリ 己上打死小田原ニテ
道珠信士 俗名三内蔵人 天正十八庚寅八月八日死於八王子手ヲイ帰リテ死ス
道法禅定門 俗名由木式部 文禄三甲午三月十三日於江戸切腹房子父
暁月宗永信士 慶長十六辛亥六月二日 俗名由木弥之助於越前国逝去
西安信士 俗名景盛行年七十歳 慶長十七壬子十月廿一日 俗名由木左衛門北条陸奥守家中也於越前国切腹ス
西傾信士           同壬子同日 俗名由木源左衛門云由木左衛門子息也切腹ス
妙法信女           同壬子同日由木左衛門妻
妙珠信女           同壬子同日由木源左衛門妻
観智国師「源誉」大和尚『世寿八十』 元和六庚申十一月二日江戸増上寺十二世由木豊前守子息 勅許賜法印当山中興「海誉」大和尚上人鏡意坊 寛永十一甲戌十月三日戌刻入滅在住五十歳世寿八十余也『当国府中由木豊前ノ子息ナリ』
*由木豊前守室の墓 慶友社版『武蔵名勝図会』四六一頁上段「墓碑 近藤出羽介の姉にて、由木豊前守室、当寺住寺法印海誉の実母なり。法号は寺の過去帳に載せたり、文字は剝滅して見えず。観音堂の西の丘地にあり」。
 三 由木氏
○由木氏は八王子市上柚木・下柚木・南大沢辺を拠点に鎌倉時代から戦国時代までを生きた武士。源姓。中興系図に「由木 源、本国武蔵由木、左衛門尉利重・之を称す」とある。
本来鎌倉時代の由木郷には横山党系の由木氏と日奉氏(西党)系の由木氏がいたと思われるが、本稿の由木氏との関係は不明である。
○由木豊前守は土屋備前守軍役人數書立(年月不詳)に「由木」とあるが、天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した、由木豊前守(道景禅定門)であると思われる。由木主水佑(西竿禅定門)も共に討死しているが、主水佑には、子の西蔵とその姉(妙野禅尼)がいる。主水佑は由木備前守の子か、兄弟であると思われる(大悲願寺過去帳)。
天正五年十一月七日北条氏照朱印状(網代友甫氏所蔵文書・一九五六)では武蔵国網代郷(東・あきる野市)の山作の棟別銭を免除した。奉者は由木某。
右、網代之山作、棟別七間分之所ニ五間之御用捨有之、
   二間依無御印判、代官衆及催促、人馬引候、迷惑之段、
   依御侘言申、此度二間分御赦免御印判被下候、此上御陣
   役幷御印判を以、被仰付御用、聊無 沙汰可走廻候、
   少も御公方御用致不足ニ付而者、可被懸過失、為先此御
   印判、志ち者ニ引候人頭幷馬取返、御公方御用厳密ニ可
   走廻旨、被仰出者也、仍如件、
     天正五年
      丁  (印文未詳朱印)
        十一月七日      由木奉之
      丑 網代 山作

年月未詳二十日北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書・三九二一)では大石四郎右衛門尉・大石左近丞に加勢衆として鉄砲一〇挺を七人の衆から出させ、その一人に「由木」とある。
(折紙)
    加勢衆鉄炮
   一丁 石原主膳
   二丁 嶋村
   二丁 由木
   一丁 車丹波衆
   一丁大石四郎右衛門衆
   一丁同左近衆
   二丁大藤手組之内
    以上十丁
    (北条氏光)
一、 右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣
候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事、
一、玉薬二百放可指添候、□□可渡事、加治□□
一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走候、少も油
 断不可致、虎口可走事、
   右之条  猶仰所、直ニ可被申付候、
      以上
     (年月未詳)
 廿日   氏照 (花押)
        (秀信)
       大石四郎右衛門尉殿
       大石左近丞殿
○由木左衛門尉景盛 興真の嫡男。武蔵国滝山城(東・八王子市)北条氏照の家臣。奉者を務める。天正六年三月十七日由木景盛奉納状写(昆陽漫録四・四七二六)では紀伊国高野山(和・高野町)龍光院の内の宗忍房に両親の菩提料として金二両と宗国の刀を納入した。「北条陸奥守平氏照内、由木左衛門尉景盛」とある。
  由木左衛門状写
         北条陸奥守平氏照内
              由木左衛門景盛 謹奉頼條々
   俗名由木隼人ト号ス吉祥院住海誉上人之祖父也(朱筆)
   亡父興真 天正六戌寅年二月廿五日逝去
   俗性武州府中高橋氏海誉之祖母也(朱筆)
   亡母 見佛 天文廿二癸丑稔三月十五日逝去
   依之二親為成佛於高野山月牌奉納之但黄金
   弐両京目幷位牌料拾疋者当國之惣社六所宮
   之大般若経一部独筆写之法印幻性房賢恵上人奉牌
   相渡申所也速に二親成佛得達然則子孫安楽守護必然之事
 一 亡父興真之骨筒越奥院江奉納所骨堂之
   垂木ニ被為打付毎日入院之時者二親成佛之回向
   所仰就中興眞在世之頃如申伝者法華妙典之
   内方便品ニ云如我昔所願今者己満足之金文者必
   後世之可成回向之由越遺言也右之金文毎日毎日
   御回向奉願候事
 一 興真者年来触雪月花之興其上扼悪心
   勤善心七拾三歳之春遠行兼而如望忌日
   二月廿五日導師賢恵上人也朝暮南無天満天神
   別而者江州石山寺之大悲観世音菩薩と称
   念佛一三味ニ而暮候也仍而速証菩提之心越
    筑波山しげき言葉の花の露    景盛
池のはちすの種となるらん
   骨奉納とて
    春風は浮世の雲越払いつゝ    景盛
     月はたか野の山に入るなり
   二親え月牌奉とて
    玉くしけふたり手向の袖ふれて  景盛
    高のゝ山に入の嬉しさ
   当世武家無手透処に此春中御暇給わりて
   在宿免ニ旅行え御時も袖に取付て六字之
   すゝめおも申奉り尤在世之内ハ善ニも悪ニも守□
   聊茂背事なく一代孝心之道越専一とせしかは
   親子之契約□勿論候一入被加不便たり依之
   かくも申伝るへきにや 然則子孫安楽守護必然也
    千世の宿かわらし物とたらち男の
    草の陰にもさそ思ふらむ
   如我昔所願今者己満足之金文之心越もろの願も今はみてるなり   
景盛
    昔にかへる法の庭人
   すてに今ハはや入院安楽の心越
    折越得て高野ゝ山のさくら花    景盛
    散る夕こそ心やすけり
   右六首寔に初心不及是非に候へ共亡父此道
   越心にふれたるなれは扼善悪申鎖侍る所也 必不可有御他見事
 一 興真一代之善根右一巻に申尽せり即
   景盛ハ亡母ニは拾壱歳之春捨られし也
   其後者祖母妙光蒙智情成人申候なり
   依之興真之如仕置毎日月牌越当國府中之
   俗名由木加賀守(朱筆)俗名由木加賀守妻(朱筆)
   花蔵院に祖父栄仙と祖母妙光との月牌越 奉る所なり      
忌日十七日(朱筆)
 一 亡父興真之随下知法華経千部者真言之沙門
   浄光坊奉願令読誦所也二世安楽之可願御
   祈念之事
 一 陸奥守平氏照家人一庵無二ニ興真在世之項歌道之伴にて被渡如親子入懇不浅次第也 仍而六字之名号越句の上にすゑ六首之和歌是あり 二世迄も契り給へきなれハ興 真一巻与一合に被相認可給置事  以上
   
 右之条々申達儀自他之批判越かへり見す
 申伝る也抑貴僧者同國同所□仁に御座候へ
 し添も御本寺仏法高野御住山乍恐難有
 奉存候従下野帰陳砌於府中遂拝面所存
申渡候へき興真遠行え折節貴来父子共ニ
二世成就ニ候此上二世安楽之御祈念無怠慢
御勤行所希状如件
   武蔵国多摩郡北条陸奥守平氏照内   
   由木左衛門尉  干時世寿三十六歳(朱筆)
   此景盛ハ於越前國慶長十七年十月廿一日切腹行年七十歳(朱筆)
   天正六年戌寅三月十七日        景盛判
   拝進                 カゲモリ(朱筆)
    高野山龍光院御内
         宗忍御房
*由木左衛門尉景盛が高野山を訪れている途中に、上杉謙信が脳卒中で倒れ没した。それは三月十三日のことである。(氏康・信玄・謙信と関東の戦国を生きた英雄達は没した。)景盛が完成間際の安土城下を訪れていた頃であろうと思われる。織田家と北条家は信長の父、信秀がすでに北条氏康と接触していることから、両家の関係は良好であったと思われる。天正八年三月九日には氏照の家臣、間宮綱信(間宮林蔵の祖)は氏照の使者として安土城を見学しているので、景盛が安土城の天守を眺めていたことは想像できる。しかし、景盛が帰途に就いた頃には謙信の死は信長にも伝わっていたことであろう。氏照は景虎(実弟)の支援のため越後に出兵したが、景虎は敗死した。
*八王子城の築城は天正六年頃と大悲願寺の過去帳にある。安土城には天皇を迎える施設(御在所)があったらしい。この頃、氏照は古河公方足利義氏を補佐する関東管領であったようで、八王子城も古河公方を迎えることができる城として、縄張りを考えられたとすると広大な城域の謎がとける。しかし、古河公方足利義氏の死(天正十年十二月廿六日)により築城は中断され、豊臣秀吉の関東征伐に備えて、再築城されたが、未完成のままに天正十八年落城となったと思われる。
*この書状は大悲願寺文書「中世・戦国武将関係」に分類された中の写しである。大悲願寺文書は二十四世如環・二十六世慈明の代に整備充実されたようで、この由木左衛門状の写しは、日の出町の古文書研究家、清水菊子氏のご教示によれば二十四世如環の書体であろうと言われた。「(朱筆)」の箇所と大悲願寺過去帳の由木氏の記載より推測すると、天正期(一五七三~一五九二)の北条氏照に仕えた由木氏は由木豊前守系と由木左衛門尉景盛系の二家があったと思われる。また武蔵名勝図会の由木氏についての記述も再検討を要するであろう。
*この書状では天正六年当時の武士の高野山に対する納骨の風習などがわかる資料であるとともに、教養(和歌)や当時の貨幣「京目」につても知ることができる。また、北条氏照家臣としての立場、特に狩野一庵との親しい関係が読み取れる。景盛は子孫安楽守護を強く願っていたが、その思いは叶わなかったのである。
東京都あきる野市の大悲願寺の過去帳には景盛の法名は西安信士、慶長十七年十月二十一日越前国で切腹し嫡男源左衛門も切腹した。この時、両名の妻達も殉じた(越前騒動)。
*景盛は国宗の刀を奉納している。由木氏伝来の家宝であろうか。国宗は鎌倉中期の備前直宗系の刀工で、備前三郎の名で知られ、後に鎌倉に移り、相州鍛冶の基を開いたとされる。
天正七年六月六日北条氏照朱印状(新井巳代治氏所蔵文書・二〇八〇)では武蔵国柏原(埼・狭山市)の鍛冶職の荒井新左衛門等に鑓の穂先を納入させた。奉者は由木左衛門尉景盛。
      御書出
    右、先年棟別依御用捨、一年鑓卅丁宛打而上可申旨、以
    御印判被定置処、九年未進候、今般御改之上、雖可被遂
    御成敗、一廻御用捨、然者未進弐百七十丁之所、半分者
    御赦免、残者百卅五丁、今来年ニ霜月十日を切而立進
    納可申、如毎年横江ニ可相渡、当役如此被仰付上、別ニ
    国役之走廻有之間敷候、但大途惣国並之御用欤、無所據
    御用有之時者供物を以、可被仰付、此上就無沙汰者、可
    被遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
          己   (印文未詳印判)  奉
      天正七年 六月六日          由木左衛門尉
          卯
             新井新左衛門
             同 半四郎
             同 九郎左衛門
             同 郷右衛門
             岡五郎右衛門
豊田 入子
○由木利重の子である存応(観知国師)は増上寺が徳川家康の菩提寺となったときの僧。家康に最初に仕えた僧の一人である。後に、金地院崇伝・南光坊天海がいる。
 【慈昌】〔じしょう、天文十三年(一五四四)一月十日~元和六年(一六二〇)十一月二日〕は、安土桃山時代から江戸時代にかけての僧。号は貞蓮社源誉存応。武蔵国多摩郡由木の出身。初め武蔵国新座郡の時宗太平山法台寺の蓮阿に師事し出家、一遍の法流を伝えた。永禄四年(一五六一)岩瀬大長寺の存貞に従って浄土宗に改宗した。その後武蔵国川越蓮馨寺をへて、天正二年(一五七四)与野長伝寺を開創し、天正十二年(一五八四)には江戸増上寺の十二世となる。天正十八年(一五九〇)徳川家康の関東入部にともない師檀の関係を持ち、増上寺は徳川家の菩提寺となった。慶長三年(一五九八)増上寺の寺地を現在の芝(東京都港区)に移して、家康の手厚い保護のもと京都知恩院とともに浄土宗の名刹となった。浄土宗法度や浄土宗関東十八檀林制度の議に参加し、また紫衣の綸旨を賜っている。「普光観智国師」の号を贈られた。国師の幼名は「松千代」で武州多摩郡由木村に由木左衛門利重の次男として生まれた。
*一二一 源譽書状(折紙)
        (ママ)
     尚々能々御様生專一ニ候、委細者口上ニ申條條不具候、
     以上、
  幸便之間一書令啓候、其以來者、遠境故無音之至ニ候、
  仍御煩氣之由、能々御養生可被成候、於其地可然醫者無
  之付而者、此方へ御越、薬をも可有御用、萬正的ニ申含候、
  恐々謹言、
                  觀智國師
     九月十一日          源 譽(花押)
        吉祥院
    (奥端書)
    「吉祥院    增上寺
             源 譽」
                 (あきる野市横沢大悲願寺所蔵)

  *一二二 源譽書状(折紙)
    追啓、寒天も近ク御座候間、頭巾一ッ、しゆちんの黑襪一足、御音

  敬具 信之首尾迄ニ候、諸余重而可申候、以上、
  遠路預使儈候、猶一段之柿幷柚松茸、何茂此口珍物ニ御
  座候、就中松茸之事ハ、珍敷賞翫申候、其以來者御物遠
  ニ打過候、遠境之條不期便宜、背本意候、何様上様御下
  向之時分、御禮可有之間、正的寮も御座候間無氣遣幾
日も可有御逗留候、必々申合候、彼仁をハ五拾石之知行、
  寺山屋敷百石餘之寺ニ申付候間、御心易可思食候、委細
  期後音時候、万々恐惶謹言、
                  觀智國師
     九月十五日          源 譽(折紙)
      吉祥院          増上寺
         御同宿中
                 (あきる野市横澤大悲願寺所蔵)

  観智國師と海誉
 存応には甥の海誉がいた。彼は大悲願寺の住持であったが、存応が可愛がった一人である。元和三~四年ごろと思われるが、海誉は病気になった。その報を聞いて心配した存応は書状をやり、遠いので無沙汰をしているが、病気の様子はどうか、注意をしてよく養生しなければならないぞ。五日市は田舎であるから、よい医者もいないであろう。もしそうならば江戸に出てきてよい医者にみてもらってはどうか。自分は江戸に出てきてよい薬を服用した方がよいと思っている。使いの正的によく申しつけてあるから、考えて処置をするように。くれぐれも体に注意するように(あきる野市横沢大悲願寺文書)と言っている。
 これは何もお世辞ではない。本当に心から出た言葉であろう。気性の強い存応に、これほどの親切心があろうとは、すこしも想像もつかないことである。やはり肉親になると異常になるのかもしれない。それはそうかもしれないが、同病あい憐れむで、自分の病身につまされた彼の真意であったと私は考えたい。たしかに片田舎の五日市には良医も少なかったであろう。親戚の一人や二人の面倒をみる経済的な余裕は多分にあった存応である。しかも彼は国師号をもらい、飛ぶ鳥も落とす勢いである。良医との交際もあったであろう。早く良い処置をして治してやりたい、というのが存応の気持ちであったろう。
 このころから存応は忠風であったらしい。忠風の気は前からあったのかもしれないが、悪化したにはこのころであろう。そして余命のないことを悟ったらしい。彼は無性に海誉に会いたくなった。さいわい海誉の病気もその後はよくなったらしい。恢復したとなれば、何とか江戸に呼んでみたかったのであろう。いや自分の手元に置きたかったのであろう。存応は九月五日づけで海誉に書状を出し(あきる野市横沢大悲願寺文書)、遠いところ使僧をありがとう。みごとな柿と柚・松茸、いずれもめずらしいもの、ことに松茸はおいしくいただいた。その後はあまりに遠ので心ならずも無沙汰をしている。秀忠下向のときはお礼もできなかった。正的の庵があるから出てきて長く滞在するように。必ずそうしなさい。正的は五十石の知行寺、百石余の屋敷をもつ寺に入れるようにしたから、安心して来るように。なお、これから寒くなるから頭巾一つ、足袋一足お礼として進呈する。といっている。これは海誉が存応に土地の産物を見舞として贈ったときの礼状である。正的は存応の使僧であったらしいが、どんな人であったのか明らかでない。ともかく存応としては、正的のあとに海誉を入れたかったのであろう。沢山の弟子がいても、どうしても肉親は可愛かったのであろう。それでさかんに誘ったのであろう(玉山成元著『普光観智國師』)。
  あとがき
 八王子落城の天正十八年(一五九〇)は関東の戦国時代の終焉である。この時、本稿の人々の年齢は幾つ位であったろうか。由木左衛門尉景盛は主人の北条氏照と同年の四十九歳位と思われる。観智国師存応は天文十三年(一五四四)の生まれとあるので、四十六歳位であろう。兄の由木豊前守は氏照や景盛と同年の四十九歳位と考えたい。海誉上人は天文二十三年(一五五四)前後の生まれであるから、三十六歳前後と考えられる。
 観智国師存応の存在が徳川実記に由木左衛門景盛の記載をさせたのであり、海誉上人がいたことが、大悲願寺の過去帳に由木氏の人々を記したのである。
 歴史は過去にさかのぼって考えることができる。あの時こうあったらとつい我々は考えてしまうものである。しかし、歴史(時間)の修正はできない。この時を人々が、精一杯に生きたことを信じたいものである。

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